走り続けた16年(231)

区画整理への道③

小金井市は長い間、都や国、そして多摩各市から特別な目で見られていました。貫井北町3丁目の公務員住宅に住んだり、前原町5丁目に隣接する東京自治会館での会議に出席する公務員は駅周辺整備の遅れや危機的な財政状況、さらに、JR中央線の高架化の遅れや、日の出町のごみ最終処分場建設反対のトラスト運動や市議会の決議などから、多摩各市は小金井市を特別扱いで、陰では「しょうがねい市」と揶揄されていました。

小金井市の地元負担ゼロの主張等で遅れていたJR中央線の高架化も沿線各市の街づくり計画により動き出しました。大久保慎七市長は東小金井駅北口の土地区画整理事業を選択し、積極的に計画を進め平成10年9月議会に、そのための「施行規程を定める条例」(条例)を提案しました。しかし、市議会は地権者の理解が得られていないことを理由に、質疑は入り口論に終始し膠着状態が続きました。待ち切れない東京都は平成11年3月18日、武蔵野スイングホールでJR中央線の着工式を挙行しました。これにより、市議会の一部に「区画整理をしなくても中央線の高架化は進んでいく」という声が出る始末でした。

4月26日市長に就任した私は、この区画整理事業の推進が選挙公約であり、それが、小金井市の発展となり、国や都、そして他市との信頼回復にもつながるものであり、何としても果たさなければならない課題でした。

私は、200人近い地権者と直接お会いして理解を求めるため公務の合間を縫って土・日を含めて連日戸別訪問を繰り返し続けました。

6月23日の中央線・駅周辺整備特別委員会(特委)でも「条例」は採決に至らず継続審査になりました。私は「区画整理推進のため都を通し国に補助金の申請をした。そのため、9月議会で『条例』を可決してほしい」と市議会に要望しました。そのため、私も職員も地権者回りを懸命に進め、公開の説明会や区画整理反対住民の会との話し合いも行いました。しかし、市議会は、全体でなく区域内に住む地権者の過半数の同意とハードルが上がりました。

9月20日の特委でも継続審査となり、平成9、10年度と連続して補助金を流し、これが最後の機会です。何としても「条例」を通すことです。大差だった反対・賛成の数が次第に近付いたことから職員も一段と気合いが入りましたが、9月定例会でも10月20日の特委でも「条例」は採決に至りませんでした。

梶野通りから数軒入った地権者が「主人の帰る夜に来てほしい」と言われ、夜に職員と4人で訪ね、出た言葉は「区画整理に反対しない、進めて欲しい」とのことでした。通りに出た私たちは、「やった!」と大声で叫びました。これで、賛成が反対を上回ったのです。その後も地権者回りは続きました。

11月5日10時に開会した特委は緊張感で張り詰めていました。私の「区域内の地権者の過半数の方々の同意をいただいている」との発言に「市長としての地位と名誉と責任を懸けての発言か」に「政治生命をかける」と答弁し、緊迫した質疑が日付を越えて延々と続きました。小金井市の命運を懸けた区画整理事業、ラストチャンスの補助金申請のタイムリミットは11月10日、秒読みに入りました。

(つづく)

走り続けた16年(211)

街づくりへの挑戦⑪区画整理

多摩地区の背骨とも動脈ともいわれるJR中央線の高架は、小金井市にとっても最重要課題であり、その事業推進は沿線市の街づくりの熟度に掛かっており、困難を極める東小金井駅北口の区画整理事業の進捗にその成否がかかっていました。

大久保慎七市長は平成10年9月定例会に区画整理事業の入り口となる「東小金井駅北口土地区画整理事業施行規定を定める条例(以下、施行規定を定める条例)」を提案しました。区画整理事業を施行する場合、法の規定に基づき、この条例の制定は必須条件です。しかし、これが想定外の難航となりました。

9月4日に提案された「施行規定を定める条例」は本会議での質疑が、9日、10日、24日と続き、やっと定例会の最終で中央線・駅周辺整備調査特別委員会(駅・中特委)に付託はされ審査されましたが、事業に対する入り口論の質疑が続き、条例の中身に入れず継続審査が繰り返されることになりました。

私は平成11年の年明け早々の7日、同僚の佐藤義明議員と都の区画整理部を訪ね、施行規定を定める条例の制定の難航から、その対応策等の協議でしたが、都は部課長とともに道路監も同席し、大歓待となり我々が面食らう程の対応でした。

都はその数日後、東小金井駅北口の区画整理事業の遅れによる不透明感はあるが、多摩地域全体を考え、中央線高架化事業の起工式を3月18日に行うことを発表しました。

1月28日に開かれた駅・中特委でも決着が着かず今後4年間に受けられる5億円の区画整理の補助金は放棄することになりました。

議会の同意が得られ難いのは、地権者の過半の反対からでした。

翌月の29日、沿線市等の市長が建設省(当時)に国庫補助の拡大の要請行動を行い、大久保市長も同行しました。沿線市の関係者からは「小金井のために高架化が遅れることがあってはならない」との声も出ていただけに、大久保市長には針のむしろに座る思いだったことでしょう。

2月5日、大久保市長が記者会見で、高齢を理由に4月の市長選に立候補せず4月25日の任期を以て引退することを表明しました。

自民党は大久保市長の後継者の選考に入りました。大久保市長から「後は頼む」と言われていた私は、執行部の立候補への意思確認に「自民党が決めれば責任は回避しない」と回答。執行部は、議会の議席が減ること、また、議会内や行政との調整役を誰がするのかが問題視されました。市議補欠選挙で穴を埋める、議会等との調整は自らが行うことで方向性が定まり、20日の幹事会での決定を公明党に伝えました。

20日の幹事会は、規約上、市長候補の決定は総務会ではないか、との冒頭の発言から、同一メンバーではあるが、総務会を24日に開くことだけを決めて散会しました。自民党の推薦が条件の公明党には、この経過が伝わらず、22日に推薦を決定しプレス発表するハプニングもありました。自民党は24日の総務会で推薦を決しました。

26日、市長選出馬の記者会見をすることから、25日に千葉の田舎に日帰りで市長選に立候補することを伝えに行きました。養父は出馬に賛成で、頑張るようにとのことでしたが、母は妻が大変になるから止めるようにの一点張りでした。

(つづく)