走り続けた16年(107)

芳須仙吉さん死去

芳須仙吉さんが、本年1月2日、静かに百歳9か月の人生に幕を閉じられました。

芳須家とは奥様のスギさんが生け花の先生であったこともあり、長い間、家族ぐるみのお付き合いをさせていただきました。

芳須さん宅での話の中で、この自宅と前にあるアパートを土地付きで寄付したいと言われたのです。場所は東町1丁目の東センターのすぐ東側です。鉄筋3階建てのアパートには居住者もいて、そのままでは無理なので寄付していただけるなら更地でお願いしたいと申し上げました。芳須さんは、アパートの居住者との契約を解除し、ご夫妻は青梅慶友病院に入院され、木造2階建ての自宅とアパートを解体し、更地にして平成27年6月小金井市に寄付されました。解体費用ぐらい市で負担すべきという声も聞こえ、心苦しい思いでしたが、芳須さんは快く私たちの要望を聞き入れてくれて実現しました。

その時の芳須さんの希望は、ご自身が生れ育った小金井市のために、大勢の高齢者が集い憩う施設で、子どもたちも気軽に来られる賑わいのある施設にして欲しいということでした。私は、その希望に沿った計画に入るには5年ぐらいの年月が欲しいと申し上げました。そして、芳須さんご夫妻からの寄贈を後世の人々にも理解してもらうため、敷地内に石碑を建てることを約束していました。

芳須仙吉さんの葬儀は、1月7日太陽寺において、バイオリンが奏でられる音楽葬で、しめやかに営まれました。ご本人のたっての願いで、お身内だけの限られた方々での葬儀でしたがお声掛けをいただき、私も参列させていただきました。

棺を覆うにあたり、一枚の水彩画を手渡され棺に入れてほしいとのこと。それは桜の大木の幹を描いたもので、一目で芳須さんの作品と分かるものでした。とっさに、この絵を高齢者施設が完成したらそこに飾りたいと思ったのですが、遺品を欲しがってるようなので諦めました。今では、事情を話して保管しとくべきだったと悔やんでいます。

芳須さんは、戦争中南方の島で23人の戦友を失い、ご自身を含め4人が生き残り、自らも砲弾の破片を体に抱えていたようです。そのため、世界平和を強く願い、昨年6月の米朝首脳会談の実現を喜んでいました。

帰国後、スギさんと結婚し幸せな家庭を築かれ、老後はお互いに趣味等を楽しむ生活を送られていました。

平成23年7月、一見ホテルを思わせる施設の慶友病院にご夫妻で入院、行き届いたサービスにより快適な日々を過ごされていましたが、奥様のスギさんが平成25年4月、その慶友病院で逝去されました。それでも、気丈に病院での生活を楽しんでおられました。

亡くなる2〜3週間前、小金井観光まちおこし協会の発行した写真集『昭和の小金井』を持ってお見舞いに伺ったのが最後になりました。その写真集にいろいろな印が付けられていたとお聞きし、今と昔の懐かしい小金井の街の写真を御覧になっていただけたと思うと嬉しくなりました。

「これでいいのか小金井市政」は、市議会終了まで休みます。