走り続けた16年(199)

街づくりへの挑戦 中央線高架⑤

「開かずの踏切り」解消のための中央線高架化は常に市政に対する市民要望の最上位でした。それが、平成2年3月、小金井市が事業費の一部を負担することに同意したことにより大きく前進することになりました。

国の平成5年度予算編成で鉄道立体化の予算要望は福岡、広島、岡山など有力な国会議員が選挙区とする6か所が手を挙げ、都も最重点施策として三鷹〜立川間の連続立体交差を要望しましたが、大蔵原案では見送られました。中央線は事業費も莫大になることから慎重な対応でした。

国は、事業採択し都市計画決定へと進めれば、沿線の街づくりとは関係なく高架化は進むとの誤った判断となり、遅れている沿線の街づくりがさらに遅れるとの危惧があり、それが、大蔵原案のカットの原因でした。

そこで、鈴木俊一都知事の直々の予算復活の陳情となりました。その結果、平成4年12月23日の局長級復活折衝で立川〜国分寺間の西区間に限って新規事業として採択されたのです。これは、国と都の間に生じた軋轢を苦肉の策で急場をしのいだといえそうです。ここで国がこだわった街づくりの遅れとは小金井市のことでした。

事業採択は立川〜国分寺間と全線の一部でしたが、調査設計費4千万円が認められたのです。2千億円といわれる総事業費の極く一部ではありますが、多摩地域の長年の悲願である中央線の高架化実現への突破口が開かれたのです。

さらに、平成6年5月、都市計画が決定されました。それは、在来線は高架、新線は地下化にするというもので、この計画は現在でも生きています。

市は昭和61年「東小金井駅周辺整備基本構想調査」を実施し、さらに、それをより具体化するため「北口」に絞っての調査を実施しました。その調査の結果、土地区画整理事業と市街地再開発事業の2案が提示され、東小金井北口の街づくりは再開発で進める方針が示されました。

中央線高架事業を進めるには東小金井駅周辺の街づくりがどうしても必要でした。

平成4年、中央線高架計画が具体的になると、高架工事には在来線を一旦北側の仮線路を走らせる必要があります。その仮線路が東小金井駅北口の再開発予定区域に想定外に食い込むことが分かりました。また、バブル経済の崩壊による経済の低迷で床需要が減少したことなどにより再開発事業は困難との判断になりました。

そこで市は、かつて再開発とともに調査していた総合的面的整備の土地区画整理による街づくりに変更することを表明しました。

武蔵境駅と武蔵小金井駅の中間に新駅が望まれ、地元市民の土地や事業費の提供により昭和39年に誕生したのが東小金井駅でした。

新たに駅ができることから周辺の街づくりが望まれ、それが区画整理事業でした。

昭和36年、新駅開設を前に、初代市長の鈴木誠一氏による東小金井駅を中心に142ヘクタールの広大な区画整理計画や、昭和43年3月二代目の関綾二郎市長の区画整理予算の提案に、市議会で事業費のほとんどが全会一致で減額修正された過去の経過がありました。地域住民の理解が得られず頓挫したのです。

この様な過去の厳しい経過が、私の脳裏をよぎりました。

(つづく)

走り続けた16年(198)

街づくりへの挑戦 中央線高架④

昭和60年4月に市議会議員になった私は、その前年に市議会が全会一致で「地元負担はゼロに」という決議時は議員でなく採択に加わっていないことや、古くからの親しい友人であった土屋正忠武蔵野市長が中央線高架の強力な推進役だったことなどから、多摩各市の市長や国や都の関係者から小金井市説得の糸口として現状等の説明や、多くの情報提供がありました。また、それは将来に渡って私の人脈となりました。

平成に入り高架の進捗が目に見えてきました。先ず「地元負担ゼロ」を主張していた小金井市が、平成2年3月市議会で地元負担を容認する「鉄道線増立体化整備基金」を設置し、1億円を積立てたことからでした。

平成3年4月統一地方選挙で、中央線高架を公約に4選を果たした鈴木俊一都知事は、同年11月JR東日本社長住田正二氏と事業推進で合意しました。

都が重点施策として要望していた中央線高架事業への予算は、国の新年度予算編成の大蔵原案の段階で見送られました。

そこで、平成4年12月、鈴木都知事を先頭に沿線市長等が予算の復活折衝を行った結果、立川〜国分寺の西区間は「市街地整備の取り組みが比較的進んでいる」という理由で予算化されました。これは、大蔵官僚にとって大先輩の鈴木都知事直々の陳情ということで、顔を立てなければとの考えからと思われます。因みに、鈴木都知事の16年の任期中、個別の事業で国への予算要望はこの1件だけといわれています。

東から高架化が進み、都心に近い三鷹、武蔵野、小金井の東区間を飛び越して西区間の事業採択の先行は、誰もが違和感を持つものでした。これは、鉄道の高架事業は南北一体のまちづくりを進めるためのものであり、鉄道の平面交差がまちづくりの障害になるために行うもので、遅れている小金井市の駅周辺の整備を促すという側面があったとも考えられます。

さらに、平成6年5月、都市計画決定されました。それは、鈴木都知事とJR東日本住田社長の合意の内容で、在来線は高架に、新線は地下化にするというものでした。

本来、中央線高架は事業費が膨大になるため、事業としての担保が取れて初めて都市計画を決定し、私権に制限をかけるのが通常であると思われます。しかし、西区間だけが事業採択されたことでの都市計画決定は、本事業が鈴木都知事の都政最重要課題であることの証明でした。

昭和39年に東小金井駅が開設され30年近くが経過しても駅周辺の整備が全く進まず、市街地として未整備の状態が続いてました。

国鉄の分割民営化により東小金井貨物駅跡地が将来処分される見通しとなり、市は昭和61年「東小金井駅周辺整備基本構想調査」を実施し、さらに、それをより具体化するため「北口」に限定しての調査を実施しました。その調査の結果は、総合的面的整備の土地区画整備事業と部分的面的整備の市街地再開発事業の2案が提示されるに止まってました。

多摩地域の背骨であり大動脈である中央線の高架化の停滞が小金井市のまちづくりの遅れが原因であることが明白になったことで、大久保慎七市長は東小金井駅北口のまちづくりに、早急に取り組む必要に迫られました。

(つづく)