走り続けた16年(220)

街づくりに重要な お二人

武蔵小金井駅南口の交通広場は昭和37年7月に都市計画決定されましたが、なかなか事業に入れず、駅前広場は公式テニスコート1面分約700平方メートルと狭隘で10数台のタクシーの待機場になっていました。バスも送迎の自家用車も入れず、ラッシュ時数万人の駅利用者は幅2メートル程度の狭い通路を肩を触れ合いながら擦れ違い、バス利用者はバス停まで狭い道路を約300メートルも大回りして乗降車するという不便な生活を半世紀以上も強いられており、駅周辺は中央線新宿〜八王子間で、東小金井駅とともに最も整備が遅れていると言われていました。そのため、中央線の高架化とともに駅周辺の整備は私たちに課せられた大命題だったのです。

私は、市長就任早々、街づくりのため二人の方に面会を申し込みました。一人は武蔵小金井駅南口の再開発予定地で大きな権利を有するH・M氏です。もう一人は元東京都建設局長・技監の木内孝蔵氏です。

H・M氏との面会は実現に時間を要しました。それは、近隣市の大学病院に入院中であることや、昭和56年にH・M氏の所有地に設置した市の駐輪場の返還請求に対し、市はこれを拒否し、仮処分を申請し裁判で争った経過があったからです。

木内氏とは職員の事務的対応で簡単にアポが取れました。木内氏は都を退職後、多摩都市モノレールの社長に就任しており、会談は本社役員室で行われました。私は胸の内ポケットに大久保慎七市長と木内技監で交わしたA4の覚書のコピーを忍ばせていました。

木内氏は挨拶の後、開口一番「就任早々の市長がきた理由がわかるよ」と言い、続けて「大久保市長が私が交わした覚書は、個人が交わしたものでなく、東京都と小金井市が交わしたものであり、二人が役職を離れても覚書は生きている」ということでした。

その覚書は標題を「武蔵小金井駅南口交通広場に係る覚書」とし、平成8年2月29日に締結されたもので、1武蔵小金井駅南口市街地再開発事業(仮称)における交通広場の扱いについて(1)東京都は、表記交通広場のうちJR管理区域外の区域が都道として整備されることに同意する。(以下略)というもので、市が武蔵小金井駅南口の再開発事業を行うのであれば、小金井街道の拡幅整備に合わせて6千300平米の交通広場を東京都が責任をもって建設するという内容のものでした。

この交通広場を建設するのにかかる事業費は60億円と試算されていました。本来ですと小金井市が2分の1の30億円、国と都が各々4分の1の15億円ずつを負担することで完成させるのですが、この覚書は都が国費を導入して小金井市の負担はゼロとなるものです。

木内氏は武蔵小金井駅南口を利用する小金井市民でもあり、当然市長選挙にも関心を持たれていたことから、私の訪問の目的は見透かされていました。

街づくりに対する考え方は一緒で、その後も、いろいろご指導をいただきました。

この閏年の閏日に結ばれた覚書は結局ポケットに入れたままでした。しかし、私が街づくりを進める上で大きな支えになりました。

武蔵小金井駅南口の交通広場は再開発前の9倍の広さで、小金井市の負担はゼロで完成したものです。

(つづく)

走り続けた16年(213)

街づくりへの挑戦⑫中央線高架着工

昭和44年、中央線、荻窪から三鷹までの高架・複々線が供用開始されたが、三鷹以西の多摩地域は取り残された形となり、これが、三多摩格差のひとつとして、その解消が多摩地域の自治体には長年の懸案事項でした。

平成6年、沿線市が朝のラッシュ時のピークの1時間に、6カ所の踏切の開閉時間を調査した結果、1時間に踏切が開く時間は3分以内で、特に、武蔵境駅東側の五宿の踏切は全く開かず、武蔵小金井駅東側の小金井街道踏切は1時間のうち23秒開くだけでした。

国、都、そして、市も高架化は街づくりの一環であり、不即不離の関係にあることは共通の認識で一致しています。これをテコに沿線市の街づくりを進めるのですが、東小金井駅北口の区画整理事業が進まない中で高架化に着工することは、小金井市の街づくりがさらに遅れるとの懸念もありました。しかし、都は工事に必要な仮線路用地の8割が確保できたことから工事着工の方向に傾きました。

街づくりを進めず高架化を行うことは、これまでの国等の鉄道立体化の位置づけが根底から問われることになり、何としても東小金井の区画整理の進捗が望まれました。それが、国や都、沿線市との失われた信頼関係を回復することなのです。

平成11年に入り市政は慌ただしく動きました。中央線の高架化と沿線の街づくりは一体のものとしていた国も都も、東小金井駅北口の区画整理の進捗を待ち切れず、都は仮線路用地が一定の距離、確保されたことから、3月18日に『JR中央線高架化の着工式』を武蔵境の武蔵野スイングホールで行うことを発表しました。

私は、2月26日の記者会見で4月25日に執行される小金井市長選挙に出馬することを表明しました。翌27日、私を小学一年から育ててくれた養父が千葉県小見川町の実家で脳梗塞で倒れ17日後の3月15日逝去しました。通夜は18日と決まり、招待をされていた着工式への出席は困難となり東京都に突然の欠席を伝え了解されました。

中央線高架化に積極的に取組んできた社会党の常松裕志前衆院議員から、通夜は夜なので名刺を200枚ほど持って着工式には是非出席してほしい、ということで、当時、社会党にはお世話になることもあり出席することにしました。常松氏から早めに出席を、とのことから30分以上も前に着いたスイング11階の会場は中央線高架化の関係者でいっぱいで、その高揚感と熱気が溢れていました。私が小金井市長選の候補予定者であることから、次々に挨拶に来られる人々が私の前に列ができる程でした。中央線の高架の進捗は小金井市の動向次第であり、遅れている区画整理や仮線路用地の確保を急いでほしいという願望が挨拶の中からひしひしと感じられました。常松氏は、中央線高架事業に係る人々の小金井市に対する熱望を私に分からせたい、との思いだったのです。

型通りの式典終了後関係者は武蔵境駅近くの仮線路用地に移動し、鍬入式には残り任期僅かな青島幸男知事や沿線市長によって行われました。

大久保市長12年間の最後の提案となる平成11年度の一般会計予算は3月26日可決されました。しかし、区画整理事業に必須の施行規定を定める条例は継続審査になりました。

(つづく)

走り続けた16年(206)

街づくりへの挑戦⑩ 区画整理

国家的事業ともいわれる三鷹~立川間13・1㎞の連続立体交差事業は、昭和41年に中野~荻窪間、44年に荻窪~三鷹間の高架・複々線の共用が開始され、次は立川までの高架化と具体的に動き出しました。鉄道の高架事業と沿線の街づくりは「不即不離」の関係とされており、小金井市においては東小金井駅北口の区画整理事業の推進が、そのまま中央線高架化の進捗に連動するものでした。

東小金井駅北口の区画整理の停滞から高架事業も滞っていましたが、平成6年に入り区画整理事業が動き出したことから高架化も一挙に進み出しました。

区画整理が順調に進み始めたことから、平成10年9月定例会に区画整理事業に必須とされる「施行規定を定める条例」が市議会に提案されました。しかし、入り口論の質疑に終始し条例の中身に入れず、課題は先送りの繰り返しになりました。これにより、内示された国庫補助金は断念せざるを得ません。そのため、国鉄清算事業団が所有する貨物駅跡地を仮線路用地としての取得に補助金を財源とすることができず、私たち区画整理推進の与党系11議員で、補助金なしで小金井市土地開発公社による用地の先行取得を大久保慎七市長に申し入れました。

特別委員会で当局は地権者の71%が賛成としていたが、市の情報公開条例に則っての調査で、賛成者の中に反対の地権者が5名入っていたことが判明、市に訂正要求がされました。また、賛成の中には市や市の土地開発公社、都や区画整理関連の6団体、29人の区分所有者の集合住宅は、管理組合の代表の意向だけで全員を賛成にカウントする等から、ずさんな調査だとの指摘に対し、反論の言葉がありませんでした。また、当局の強気の発言が野党の一層の反発を招いていたのです。

条例が可決されないことなどから平成9年・10年と2年連続して内示のあった国庫補助金は取下げの手続きとなり、今後、補助金が得られない可能性がある、との指摘もあり、その様な事態になれば、中央線高架化の遅れとなり、国や都、近隣市との信頼関係が損なわれることが懸念されました。

私は、仲間の都議の紹介で、同僚の小金井市議会の佐藤義明議員と都庁の区画整理課を訪ねました。統括課長の宮澤正氏と担当職員との面談予定でしたがそこには、高木正彦部長も入り、さらに、石河信一道路監の同席には驚きました。小金井市議会に対する期待と中央線の高架化は都政の最重要課題とする鈴木俊一知事の思いが伝わりました。区画整理部との話し合いで、都は今後も全面的に協力していくとし、補助金の2年連続の返上を今後に影響させないというものでした。2人の議員の勝手な行動が役に立ったとの思いでした。石河道路監等にはその後も小金井市の街づくりに協力をいただきました。

区画整理の反対運動は盛り上がり、少数与党でもあり施行規定を定める条例が遅々として進まないことから、高架化のための仮線路用地の確保は、小金井区域は遅れていましたが、他市では着々と進み、事業主体である東京都は平成11年3月18日に中央線高架化工事の起工式を行うことを決定しました。

(つづく)