走り続けた16年(125)

市議会議員として⑥

昭和60年5月26日の選挙で保立旻市長が当選し、6月3日から2期目がスタートしました。待ってたのは3月31日の定年制の導入で退職した37人の欠員に伴う職員組合との労使交渉でした。当時の労使交渉は、私の16年間とは全く異なる暴力的なものでした。市長をはじめ理事者、管理職者にとっては精神的にも肉体的にも苦痛を伴う労使交渉でした。

新人議員の私は、保立市長の要請もあり、この労使交渉を議会の控室で成り行きを見守っていました。

6月議会を直前に、激しい労使交渉が市民の目の届かないところで続きました。

連日続く労使交渉で労務担当職員の体力の限界を感じての保立市長の決断だったのでしょう。徹夜になった午前3時頃、保立市長が控室に来られ、5人の採用で妥結した事が告げられました。37人の退職に5人の現業職の採用です。沈黙が続きました。市長も市議会議員も財政再建のため職員削減の行革推進を選挙公約に選挙が終えたばかりなのです。

暫くして、保立市長が窓際にあった電話機を手にしました。相手は選挙管理委員会の事務局長です。市長は、
「もし私が辞職したら繰り上げ当選になるのか」と言うのです。2期目の当選を果たし、わずか2週間余りでのこの言葉には、驚きを通り越すものでした。

それは、市長が妥協することで議員も選挙公約を果たせなくなることの責任なのです。

6月13日付で、市長と組合の委員長の間で欠員問題について協定が締結されました。

その内容は、⑴現業職5名を採用することとし、採用時期は9月とする。⑵その他残る課題については、引き続き誠意を持って協議する。という内容のものでした。

そして、7月5日の市報に職員募集の記事が小さく載りました。「市では昭和60年度に職員を次の通り募集します。技能職(給食調理、一般作業、一般用務等)昭和37年1月1日以降に生まれ、義務教育を修了した者、若干名」とあります。

与党議員の一部は硬化しました。私も、これで1期目の任期中に1千25人の職員を1千人以下にするという目標の実現が難しくなったとの思いでした。与党会議でも行革に対する当局の対応が甘い、との厳しい指摘がされるようになりました。しかし、激しい労使交渉や市長の首を掛けての対応を知る私はこれを責めることにはなりませんでした。

この結果、大久保慎七助役が責任をとる形で10月12日、一身上の都合で、との名目で退職願いが提出され、10月31日退職しました。

その後、小金井市の職員数が職員1千人の大台を割ったのは平成7年であり、26人の削減に10年もかかったのです。職員は一旦採用すれば民間企業と異なり、本人の意に反しての解職は不可能であり職員削減の難しさを実感させられました。

その様な状況でも、私の市長としての16年間は915人から671人と244人の削減を果たしたのです。これに、西岡真一郎市長の選挙公報での「財政難は行革が進まなかったから」という批判には、まさに身を切る職員の協力を無にするもので、到底、納得できるものではないのです。

(つづく)