走り続けた16年(130)

市議会議員として⑪

昭和46年からの革新市政も昭和54年の市長選で星野平寿氏の当選により8年で終止符が打たれました。

満を持して登場した星野市長は、行革を旗印に数々の改革案を提示するなど厳しい言動により、革新市政の中で存在感を発揮してきた強力な職員組合とは全面対決の様相となりました。

しかし、星野市長の不適切な公務出張が問題視され、一旦辞表を提出したが3日後に撤回するなど市政は大混乱となり、結果、市議会が不信任を可決しました。しかし、市長本人は辞職せず議会の解散を選択しました。そのため、小金井市はその数か月間は全国ネットのワイドショーなどマスコミの餌食となってしまいました。

解散による市議選の結果、星野市長を擁護する候補者が次々と落選したことから、任期を2年残して星野市長は辞職となりました。

行革を標榜する星野市長の辞職による反動で、職員組合はさらに強力になりました。

昭和56年5月31日第5代目になる保立旻市長が誕生しました。

その当時の人件費比率は全国調査の昭和51年以降、常に40%台にあり、全国ワーストを続けるなど財政状況は最悪でした。

昭和56年6月の保立市長就任初議会で、前市長が残した武蔵小金井駅南口駐輪場問題に関し、地主側から用地の原状回復、明け渡し請求が出され、市側もこれに仮処分で対抗することとなり、最終的に裁判で決着するための議案が市長から提案され、可決しました。初議会で市長が市民を訴えるという極めて厳しいスタートとなりました。この件に関しては後日詳しく報告します。

多くの課題の中で特に急がれたのが粗大不燃ごみの中間処理施設の建設でした。

市民から収集した可燃ごみは二枚橋で焼却処理されますが、不燃ごみは昭和55年以来、西多摩郡羽村町(現・羽村市)の処分場で昭和58年10月まで3年間の約束で埋立て処分をしていました。

昭和58年9月、粗大・不燃ごみ埋立てに中間処理施設を持たない小金井市に地元は特別の配慮をしてきましたが、乾電池や蛍光灯、体温計などの有害物質を埋立てごみとして収集し処分場に搬入されているとの情報により、周辺住民で構成される協議会等から、事実関係の調査などを市に求め、搬入停止の措置がとられました。

保立旻市長と鈴木一雄市議会議長が羽村町側を訪ね、その事実はないと説明しながらも、一日も早い解除を求めて陳謝し、10日後に再搬入が認められました。小金井市にとって最大のピンチであり綱渡り行政でした。

また、昭和59年4月からは西多摩郡の日の出町で埋立て処分をすることが決定し、予定通り着々と工事が進んでいました。

ところが、日の出埋立て処分場を利用するには、可燃ごみや金属など再資源化できるものを分別し、容積を減らすため15センチメートル以下に破砕するための中間処理が義務づけられていました。

しかし、日の出処分場を利用する予定の多摩各市町で、小金井市だけが不燃ごみの選別・破砕する中間処理施設を持たない状況で、それがなければ日の出処分場への搬入は不可能になるのです。

(つづく)

走り続けた16年(129)

市議会議員として⑩

昭和60年4月に市議会議員になった私は驚きの連続でした。

5月の市長選で圧勝した保立旻市長が安定した与党体制で市政が運営されると確信していたのが、6月に現業職員5名採用を決めたことから一転与党体制に不協和音が生ずることになりました。

また、その数か月前の2月13日、小金井市議会で「二枚橋焼却場の建て替えと同時に他の場所での第2工場の建設計画を同時並行で進めるべき」との趣旨の決議が小金井市議会全会一致で可決されました。これは、小金井市にとっては違和感のないものでしたが、調布、府中の両市には到底受け入れられる内容でなく、保立市長はその狭間で苦悩することになりました。

人口増の中、大量生産、大量消費の社会風潮もあり、全国的にごみ量が増えることから、各地で「ごみ戦争」と呼ばれる紛争が勃発するようになりました。それは、迷惑施設と目される焼却場や最終処分場の必要性は誰もが認めるところですが、自分の近くでないことを望むのも無理からぬ話ではありました。そのような状況から、焼却場等は自区内処理が原則となる風潮が広がりました。

二枚橋焼却場は3市の市域に跨がるという微妙な立地にあり、約1ヘクタールの土地に150トンの炉が4機設置され、環境問題からも地元還元施設などを考えても非常に狭隘でした。また、二枚橋は調布飛行場の飛行区域に当たることから煙突の高さは60メートル以内に制限されており、北側の小金井市域には「はけ」と呼ばれる段丘の宅地開発が進んだことから他の2市との焼却場への考えは異なるものでした。

この二枚橋焼却場の「近代化(建て替え)計画」は先の小金井市議会の決議により完全に暗礁に乗り上げました。小金井市としては当然と思える決議でも、調布、府中の両市への思いが至らなかったのです。建て替えに当たって、それが環境に及ぼす影響を事前に予測と評価を行い必要な措置を講ずるための環境影響調査(環境アクセス)の予算も小金井市の同意がなく執行不能になりました。

結果的に、この決議で二枚橋の3市による新焼却場施設の建設は不可能となりました。同様の課題を持つ多摩各市や一部組合は、小金井市の対応に対して厳しい評価でした。

個人的にも親しかった調布の吉尾勝征市長は、二枚橋組合から脱退し、三鷹市との協同処理の方向に切り替えたときの言葉は「稲葉さん、調布は脱会するのではなく、小金井市から追い出されたんだよ」という認識で、三鷹市との共同処理に向かいました。

私が市長に就任し、8年後の平成19年3月には施設の老朽化で煙突や建屋の崩落の危険が増したことから焼却を終了しました。

そこで、多摩各市や一部組合に、小金井市の可燃ごみ処理の支援要請をする際、決まって聞かれたのは、昭和60年の『二枚橋の決議』の私の対応でした。

当時私は一市民で、その2か月後に市議になったことを伝え、そこから交渉が始まるのでした。もし私がこの決議に参加してたら小金井市のごみがどうなっていたかと思うとぞっとします。その時、議員だったら賛成票を投じていたと思うのです。

(つづく)

走り続けた16年(128)

市議会議員として⑨

昭和60年5月の市長選挙で相手候補の倍近い得票で圧勝した保立旻市長の2期目はスタートから非常に厳しいものになりました。

2期目スタートして間もなく、現業職員5人を採用することにより絶対多数の与党体制は1か月も経ないうちに亀裂が入りました。それは、保立市長を支える与党議員の選挙公約に反するもので、市長の選挙公約にも反する内容だからです。

さらに、保立市長が苦しんだのは、調布、府中、小金井の3市の可燃ごみを共同処理していた二枚橋焼却場の建て替え問題でした。

これは、3市の市民の排出する可燃ごみは、昭和33年以来3市の市域に跨がった二枚橋の区域で焼却処理をしてきました。

しかし、施設の老朽化による焼却量の低下と、人口増によるごみ量の増加により安定的な処理が困難になり、早急な建て替えが必要とされました。そこで、3市を代表する6人の議員で昭和57年7月以来、建て替えに向けての協議・検討を進めていたのです。

昭和59年3月の小金井市議会の市長報告で「現有敷地内で現有施設を稼働しながら建て替える基本計画が示され、昭和59年度予算に施設近代化に関連する予算が二枚橋組合議会で可決されている」との報告がされました。保立市長は本計画に沿って進めていく考えを示しながら、他の2市とは立場が異なるとし、地域住民との対応を優先して考えたい、と複雑な心境を吐露していました。

そして、昭和59年9月、市議会の全員協議会で保立市長は、「ごみ焼却事業について3市共同による組合運営を堅持する」とし「焼却施設が老朽化し日常のごみ処理にも支障が生じてくるので、現有敷地内で現有施設を稼働しながら建て替えることを基本計画とする施設近代化計画を進める立場である。従って、小金井市により凍結されている近代化基本計画に関する二枚橋衛生組合予算の凍結解除を認めてほしい」と議会に要請しました。

これに議会側は近代化の具体案が明らかにされていない上、環境影響事前調査の実施に関し地元の同意が得られていないこと等が指摘され、凍結解除に関し議会の理解は得られませんでした。

昭和59年12月の市議会では、二枚橋焼却場については早急に建て替えを進め、公害等を解消する立場で対処したいとの方針が示されたのに対して、住民に迷惑をかけない施設とすること等を二枚橋衛生組合に意見具申していくよう市長に申し入れました。市長は、市議会の要望に対し、「意向を承って今後二枚橋衛生組合に十分意見を申し上げるよう努力していきたい」と答弁しています。

それが、昭和60年当初に行われる市議選や市長選の直前の市議会で、他の場所に第2工場の建設計画を二枚橋焼却場の建て替え計画と同時並行で進めるべきであるとの内容の「二枚橋焼却施設近代化計画に関する決議」が全会一致で議決されたのです。

この決議は、小金井市側から見れば当然の要求のようにも見えますが、調布、府中の2市には逆鱗に触れるような内容であり、多摩地域全市においても小金井市のこの対応は大きな不信感を生むことになりました。

(つづく)