走り続けた16年(126)

市議会議員として⑦

保立旻市長の2期目が昭和60年6月3日スタートしました。保立市長の主たる選挙公約も職員削減などの行財政改革でした。3月31日定年退職した37名の欠員補充を求める職員組合との連日の労使交渉は暴力的であり、精神的にも肉体的にも苦痛を伴い自尊心を傷つけるものでした。

6月12日、私にとって最初となる小金井市議会第2回定例会が開会されました。初日の議会が終了した後、当局は職員組合と労使交渉が続行されました。日付の変わった午前3時頃、議会控室で待機していた私に、現業職5名の採用で妥結したことを市長から聞かされました。市長も与党議員にも直前の選挙の公約に反する内容でした。当選し2週間余り、市長の辞職を覚悟しての妥結でした。

絶対多数の与党体制でした。本来なら、安定した議会運営ができるものが、この現業職5名の採用により与党体制は一枚岩とはいえない状況になり、行革に対する対応が甘いという厳しい批判が続きました。

この結果、大久保慎七助役が責任を取る形で10月12日、一身上の都合ということで退職願いが提出され、任期を1年半程残して10月31日辞職しました。

その大久保助役の後任の人事案件での議会質疑の中で「大久保助役を慰留しなかったのか」との質問に、保立市長は「6月から慰留に努めてきたが意思が堅いので…」との答弁でした。なんと、6月の現業職員の採用時に市長も助役も辞職を考えていたのです。

議会与党からは厳しい行革が求められ、反社会的団体を思わせる職員組合との狭間で大変な状況でした。

新しい助役は、東京都の情報連絡室報道部庶務課長の市川正氏が市の要請により就任することになりました。大久保助役の退職前に市川氏の名前が出てしまったこともあり、行革を恐れる組合の反対運動は、勤務先の都庁や居住する町田市でも天下り人事反対の運動が展開されるという異常な状況でした。

市川氏の選任同意に対し「都からの出向人事は自治権の放棄ではないか」との意見もありましたが、本会議で賛成多数で即決されました。

しかし、議会は混乱が続き、12月23日の最終日も、助役就任時の混乱で与党議員が負傷した問題の打開策の調整が整わず、会期を1日延長しました。しかし、24日も空転が続き、再び会期延長を諮るため午後5時直前、本会議を招集したが出席議員が定足数に達せず、会議規則により自然閉会(流会)となり、市長提案の補正予算3件と市民から出された請願・陳情23件は審議未了廃案になってしまいました。

その後も、市議選直前の昭和60年2月に市議会の「二枚橋焼却場施設近代化計画に対する決議」への対応や、貫井北町1丁目への「粗大不燃ごみ処理施設」(小金井市中間処理場)の建設や管理運営、そして、老人入院見舞金支給条例の議員提案など、大きな難題に直面した保立市長に大変なご苦労をいただくことになりました。

また、12月議会で廃案になった議案、請願・陳情27件は2月5日から7日の臨時会で対応されました。

(つづく)