走り続けた16年(238)

令和4年の終りにあたって

本欄も今年最後になりました。1年間のご愛読に感謝です。

世界中に蔓延した新型コロナウイルスが今年も収まらず拡散が繰返され、来年に持ち越されてしまいました。この期間、成長期の子どもたちが、学校や家庭、地域において多くの行事を体験し、多くのことを学ぶべき時に閉鎖的社会となり、その成長の妨げにならないことを願います。コロナとの共存の社会生活を模索しながら、1日も早くマスクを外した3年前の生活に戻ることを願います。

2月24日のロシアによるウクライナ侵略は「武力による一方的な現状変更の暴挙」であり、絶対に容認できるものではありません。短期間での終戦と思われたこの戦争も長期戦の様相となりました。これは、ウクライナ国民が米・欧などの支援を受け、自国を守るという強い意志で戦っているからです。報道によればロシアの劣勢も伝えられています。

ウクライナの反転攻勢との報に心を軽くすることもありますが、それにより、戦争が長引き戦死者が増え、多くの人々を不幸に陥れ歴史ある街を破壊することにもなります。

自らの欲望達成のための戦争は最も愚かなことであり、絶対にプーチンの野望に屈すことにはなりません。武力による現状変更は世界を敵に回すことになり、プーチンの過ちを二度と繰り返させないための歴史的教訓にしなければなりません。

昭和19年11月満州に生まれた私は、昭和20年8月9日ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州への侵略がフラッシュバックとなり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と思われる症状を体験しています。

ソ連の参戦が9か月の私には全く記憶にはないのですが、母の話や手記、また、終戦後の満州の混乱や引き揚げの悲惨さを書物による記憶から、ロシアの侵攻により、戦地に赴く父親に泣いてすがる幼児や、家族を失ってか少ない荷物を持ってさまよう少年の映像を目にすると、満鉄社員の父を失った私は、自分の意志とは関係なくフラッシュバックのように思い出され、悪夢で目が覚めることが続き、不安や緊張の高まりが続きました。

平成11年、私が市長就任時の小金井市は、全国ワーストの財政状況、駅周辺の未整備、開かずの踏切り等ネガティブな評価でした。私が目指したのはこれらの改善とシティプロモーションでした。これは、市民が市政を信頼し地域への愛着を持ち、地域イメージの向上やブランドの確立を市民と行政がともに進めていくことでした。

私たちの生活に最も身近な11月27日に執行された市長選挙の投票率は35・59%と過去最低となりました。当日の有権者が10万2千93人で有効投票は3万4千252票です。なんと3分の2超の6万7千841票が棄権と無効票になっています。この傾向は市議補選も同様で、市民の目が市政に向いていないのです。これは、西岡市長の突然の辞職に伴うものではありますが、あまりの低投票率は問題です。

白井市長には市民の信頼を得るべく、市の20年30年先を目指し、一歩ずつ歩みを進めることを願います。

今年も残り僅かになりました。迎える新年がウクライナをはじめ世界中が平和な年となり、皆様にとっても幸多い年になることを祈念いたします。

(つづく)

走り続けた16年(237)

新市長に白井亨氏

西岡真一郎市長の突然の辞職による市長選挙と市議会議員補欠選挙が11月27日投開票され、市長には白井亨氏が、市議補選の2議席は河野麻美氏と高木章成氏が当選しました。

市長選の白井氏の得票は2万7千251票で、共産党推薦の小泉民未嗣候補の7千1票とは大差となりました。

問題は、白井、小泉の両候補とも革新系であり選挙公約に大きな違いがないことから、盛り上がりに欠ける選挙になったことです。

また、自民党が候補を擁立することができなかったことで、選択肢が限定されたこともあり、投票率が34・25%で前回の市長選を5ポイントも下回り過去最低を記録し、無効票も2千票を上回ってしまいました。これは、西岡市政を支えてきた与党議員や支援者も積極的に参加できる状況になかったことも一因と思われます。

自民党にとっては市長奪還の絶好のチャンスであり、市議会議員等からの立候補が期待されましたが果たせませんでした。

一方、保守系と目される候補者出馬の動きもありましたが、告示日直前に体調不良で立候補を断念したことから革新系同士の戦いとなってしまいました。結局、政党に属さない白井氏に保守票が流れる結果となりました。

また、定数2議席の市議会議員補欠選挙は市長選に候補を擁しない自民党推薦の河野氏が1万5千926票で当選し、2議席目は市議会単独会派の3議員が推す高木氏が9千301票で当選しました。白井氏のグループ「小金井をおもしろくする会」に属する永鳥太郎氏が9千267票と34票差で苦杯を嘗めました。

市議補選の河野氏は告示の1週間前に出馬を決意し、そこから事務所の開設、ポスターの写真撮影と制作、選挙車の準備、政策のとりまとめ、立候補の手続き、5歳と3歳の男児の母としては超多忙なスケジュールの中での選挙となりました。短い準備期間で、市長候補と共闘できないにも係わらず約1万6千票は大善戦であり、この1万6千票は市長選では白井氏に投じられたと思われます。それは、同じグループ「小金井をおもしろくする会」に属しながら、市議補選の9千票と市長選の2万7千票との差にあります。市議補選トップの河野票に永鳥氏の票を加えると、ほぼ白井氏の票に近いものになり、自民党は市議補選で存在感を示し、面目を保ったということになります。

前市長が議会の議決を経ず専決処分した保育園の廃園問題は、議会の不承認にもかかわらず現在も廃園に向けた事務作業が進んでいます。白井市長は専決処分前の状態に戻して廃園の事務作業を止める条例改正案を市議会に提出する考えを示していました。職員は市政トップの言動に翻弄されています。

白井新市長は就任初日の28日の記者会見で選挙戦の公約に掲げた市立保育園廃園計画の撤回や新庁舎建設問題について、具体的な日時は示さず、「市議会などと各種調整をしてタイミングをみる」と述べるに止まった、と報じられました。議会を知る新市長としては慎重なスタートを切ったようです。

新市長には保育園の廃園問題、新庁舎建設計画や都市計画道路の建設問題など諸課題が待ち受けています。

市民の期待に応え、安定的に発展する市政が期待されます。

(つづく)

走り続けた16年(236)

区画整理への道⑤

小金井市の命運をかけた東小金井駅北口の土地区画整理事業は過去2度の失敗もあり、困難を極め、平成10年9月、大久保慎七市長により事業推進のため第一の関門となる「施行規定を定める条例」が提案されましたが、1年以上も議決されず、特別委員会(特委)で継続審査が繰り返されていました。

私が就任半年後の平成11年11月5日に開かれた特委は6日(土)に続き、日曜日を飛ばして8日へと続きました。10時に開会した特委の冒頭、33人の反対住民から要望書が議長宛てに提出されたとの報告がありました。その内容を要約すると、「私たちは11月5日の特別委員会で、市長自ら57名の区域内地権者を回った結果賛成29名、反対23名、不明5名であり、市長はその地位、名誉、職責をかけて区域内地権者の過半数が賛成と明言した。しかし、私たちは現状の区画整理の進め方は地権者の意見を反映しておらず、このまま進めることに反対です。このため、区域内地権者として私たちは市長が政治生命をかけた賛成地権者に属さないことを宣言し、委員会での虚偽事実の発表に強く抗議し、継続して審査されるよう強く要望します」というものでした。33人の区域内地権者が要望書に署名し押印したものと私が頭の中で整理した29人の数字とどちらに信憑性があるかとの議論になりました。事業の執行には賛成だが公にはしないでほしいという地権者もいます。家族の中で、親戚間で、そして隣近所とのお付合いの中で賛成を表明するのは厳しいものがあります。私には賛成の意思表示をしても、反対住民に署名を要請されれば断ることができず、賛成反対の双方への意思表示になってしまうこともあるのです。その辺の事情は十分に分かっている議員ですが、それでも議論となりました。

午前10時に開会した特委は日付が変わった9日午前2時30分、与党議員から質疑打ち切りの動議が提案されました。11月6日の特委での質疑打ち切り動議は早すぎるとの私の判断から取り下げてもらいましたが、今回は採決となり可否同数で委員長裁決で質疑の打ち切りが決定しました。

そして、午前3時44分ついに特委で「条例」が採決され、一票差の賛成多数でついに可決されたのです。

この結果を受け、翌日10日の決算委員会の日程を急遽変更し、午前10時からの臨時会の開催を告示しました。異例の臨時会の開催です。本会議に先立つ議会運営委員会(議運)、本来であれば30分程度で済む議運が、何と本会議の開会は午後4時過ぎになりました。本会議では特委での委員長報告での質問と持論の展開がつづいた後、起立採決で賛成13、反対6、退席4人で原案可決と決定。本会議は午後10時20分閉会しました。あれだけ激しい1年2か月の激論の末の採決で、反対が僅か6人であったのは、職員の粘り強い努力の成果であり、その後の事業推進に好影響を与えるものでした。早速、補助金申請等の書類を携え、都の担当者が待機する都庁へは竹内實助役が持参し、多くの職員と見送りました。書類の提出が無事終了したことを確認し、小金井市の新たなスタートを実感し、日付の変わった平成11年11月11日を迎え、職員とともに私も安堵と喜びの中で家路につきました。

(つづく)