さくら通信

8月や6日、9日、15日

今年も猛暑の中で「平和を考える 8月」を迎えました。

あれから79年の歳月が流れ、日本の総人口の90%近くが戦後生まれとなり、戦争体験のある人は極めて少なくなりました。

そのため、戦争の悲惨さを語り継げる人も少なくなり、風化されてしまうのが危惧されます。

政治家においても、戦争の悲惨さを体験した人は極めて少なくなりました 。

昭和20年8月、広島、長崎への原爆の投下により一瞬にして多くの命が奪われ、そして 多くの方々が傷つき、長い間その後遺症に苦しんでいます。

また、平穏な生活が一瞬にして奪われてしまったのです。

原爆の悲惨さを世界中に発信し、核保有国にその使用を思いとどまらせることは、唯一の被爆国日本の責務でもあります。

長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日のその日の未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻しました。

ソ満国境の牡丹江省(現、黒竜江省)、南満州鉄道株式会社(満鉄)綏芬河駅の助役を務めていた、父の発車の合図で母と生後9か月の私は、急遽編成された特別列車で行く当てもない、ただソ連軍から逃れるため国境を離れました。

28歳の父は、その綏芬河が最期の地になりました。

私が市長に就任して3年目の平成13年8月、80歳になる母と妻と娘と56年ぶりに4人で、中国東北地方 (旧満州)を訪ねました。

私の生まれたムーリンは、いかにも中国の田舎町という感じの町で、私の生まれた旧満鉄社宅はその時でも健在で目立ちました。

また父が眠る綏芬河市は、ロシアのリゾート地でヨーロッパ風の風光明媚な街でした。

私も間もなく80を迎えます。父に、母が102歳で亡くなった報告と最後の別れを告げに行く必要を感じています。

令和4年2月24日、ロシアは一方的にウクライナを侵略しました。

この侵略の報道に接した私は、母の手記や話に聞く77年前のソ連の満州侵略が二重写しとなり、PTSD (心的外傷ストレス障害)で体調を崩してしまいました。

武力による現状変更は到底許されるものでありません。核を保有する軍事大国のロシアの一方的な侵略です。

この戦いは短期間で終わると思われていましたが、武力による現状変更は認めないとする欧米の支援もあり終わりが見えません。

絶対にプーチンの思い通りにさせるわけにはいきません。欧米の支援でウクライナの反転攻勢の報道に気持ちが少し和らぐこともありますが、これにより戦争が長引くことにもなり複雑です。

ただ 1日も早い停戦、そして終戦を願うばかりです。

また、中東ではパレスチナ自治区ガザを拠点とする、ハマスの奇襲攻撃を受けたイスラエルが、ガザを激しく攻撃し多くの市民を巻き添えに、子供たちを含む4万人を超える死者が出ています。

いかに奇襲攻撃に対する報復とはいいえども、過剰な対応であり自衛権行使の域を超えるもので、到底 認められるものでありません。

実際 20年7月に、イスラエルとパレスチナの過去の紛争により、肉親を失った高校生を小金井市に招いて行った「中東和平プロジェクト in 小金井」で誓った不戦の約束を、彼らが彼女たちに思い出してもらいたい、そして1日も早い停戦、そして終戦を願うものです。

ウクライナやガザに平和がよみがえり、子供たちに日常の笑顔が帰り、私たちが ウクライナやガザの復興復旧に協力できる日が、1日も早く来ることを心から願っています。

 

走り続けた16年(271)

厳しい年始ではあるが

4年振りの帰省で、家族揃って新しい年を迎えての元旦の団らんを最大震度7の能登半島地震が楽しかるべき一時を一瞬にして悲劇に変えてしまった。

この地震による家屋の倒壊等で多くの人が犠牲になり、安否不明者の捜索も余震の中、自衛隊や消防、警察が懸命に行っています。

地震による津波や火災も発生、また土砂災害や道路の寸断で復旧作業も救援物資の搬送も計画通りに進まず、停電や断水とライフラインにも大きな障害が出ています。水や食料、ガソリンも暖房の灯油も不足しています。その上、雨や降雪が避難生活や復旧作業をさらに困難にしています。

復旧・復興には政府を先頭に全国の自治体も職員の派遣や救援物資の提供も必要です。政府が司令塔になって対策を講ずる必要があります。国を挙げ仮設住宅の建設など対応しなければなりません。また、私たち一人ひとりも何ができるかも考える必要があります。

元旦を襲った地震です。懸命な救出作業がテレビニュースで報じられる最中の二日、突然、羽田飛行場からの現場中継で日本航空の旅客機と海上保安庁の飛行機が衝突し発火して滑走する航空機が延焼する画面が写し出されました。乗客・乗員は?と緊張が走りました。海保機の乗員6人のうち5人の死亡は残念でしたが、日航機の乗客と乗員379人の全員が無事脱出できたことは、奇跡ともいわれました。今後、原因の解明と改善策が講じられることになります。

世界に目を向けると相変わらずの戦争の映像に胸が痛みます。

ロシアのウクライナ侵攻が続く中、イスラエルがパレスチナ自治区のガザ地区を攻撃しています。目的はハマスの壊滅であってもパレスチナの一般市民、子どもや女性が犠牲になり、その報道には目を覆うばかりです。

平成17年8月、私はポーランドのアウシュビッツの収容所を訪ねました。第二次世界大戦でのナチスドイツのホロコースト作戦で何の罪もないユダヤ人がユダヤ人であるというだけで600万人といわれる人が殺されました。人間はこれ程までに残虐なことができるのかと思う程でした。人類史上最大の負の遺産であり、絶対に忘れてはならないことです。

そのユダヤ人国家であるイスラエルが圧倒的優位にある武力でガザ地区のパレスチナ人を殺害しています。複雑に絡み合っての戦いです。一日も早く紛争が治まり、子どもたちの明るい笑顔が戻ることを願うばかりです。

平成20年夏、旧知の友である京都府綾部市長の四方八州男氏の勧めもあり『中東和平プロジェクトin小金井』を開催しました。これは、常に一触即発の関係にあるイスラエルとパレスチナの憎しみの連鎖を断ち切り、友好親善を進めるため一粒の種を蒔くことを目的に、両国の紛争で肉親を失った高校生を小金井市に招いて交流を図るというものでした。彼等はホームステイなど行動を共にする内、「お互いに銃を向け合うことは止めよう」という言葉が出るようになりました。私は、この事業の成功を確信しました。この事業は外務省も評価し、国連総会で麻生首相から全世界に紹介される程でした。あれから16年を経て30代半ばになっている彼等が早く双方の国のリーダーとなって和平を進めてほしいと願うばかりです。

(つづく)

走り続けた16年(160)

平和を考える8月②

日本の長い風習は、お盆の時期は一斉休暇で故郷に帰るというものでしたが、今年はコロナの影響でお盆休みは例年と違ったものになってしまいました。それでも、新聞やテレビ等は75年前の戦争についての番組の編集に大きな時間等を割いての報道は必要なことであり、歴史の風化を防ぐため、若い人たちにも伝えていかなければならないと考えます。

私は平成17年、戦後60年という節目で、ナチス・ドイツの強制収容所であるポーランドのアウシュビッツを訪ねました。最初のビデオ説明では「目を反らさず最後まで見るように」から始まります。それは、ユダヤ人であるということだけで、罪のない600万人ともいわれるユダヤ人が残虐な手段で殺されたのです。その現場に触れた時、人間はこれ程まで残虐なことができるのかとの思いでした。

そこには、大勢のドイツの若者たちも団体で来てました。自分たちの国が犯した戦争犯罪を直視し、再び過ちを繰り返さないとの考えからの訪れでした。

私も戦争によって人生を変えられた被害者の一人として、平和を希求し、種々の平和事業に取り組みました。

平成20年1月31日、旧知の間柄の京都府綾部市の四方八洲男市長が市役所に来られ、中東和平のプロジェクトを開催してほしいと依頼されました。

すでに予算編成は済んでいましたが、7月「中東和平プロジェクトin小金井」を開催することにしました。

これは、イスラエルとパレスチナの紛争で肉親を失った高校生を招き、二人一組で6組がホームステイ等を通して交流を深めていくもので、その中で「お互いに銃口を向け合うのは止めよう」との言葉が出たことで、平和に向けて一粒の種を蒔くことができたと確信しました。

その評価は、同年9月ニューヨークの国連本部で就任間もない麻生太郎総理大臣の一般演説で「日本の市民社会が進める平和促進」と紹介され、世界中に発信されました。

その後、イスラエル、パレスチナを訪れ、その緊張関係に接した時、小金井市で誓った高校生たちが早くリーダーになることを願いました。

昭和20年の8月は6日に広島、9日に長崎への原爆投下、そして、15日の終戦と激動の月でした。それは満州(中国東北部)も同様で、生後間もない私の運命を大きく変えたのがソ連の参戦でした。

ソ連とは日ソ中立条約を締結し、相互不可侵と第三国の軍事攻撃に対し中立を定めたもので、信頼してたソ連の裏切りでした。

8日に宣戦布告したソ連は翌9日未明から満州に侵攻。私の両親は、取るものも取り敢えず砲弾の音に追われながら、ソ満国境の牡丹江省綏雰河(スイフンガ)駅から、当駅助役の28歳の父を残し、母と奉天(現・瀋陽)に向かって逃げました。そこで1年間の難民生活の後、葫蘆島(コロトウ)から引き揚げ船で日本に帰りました。

平成13年8月、家族で満州の私の生家と父と生き別れた綏雰河へ慰霊の旅に立った時、妻の母が詠んでいた二首の短歌です。

内に秘め耐えたることの多かりし 如何に伝えん父の御霊に

あの時の別離の言葉忘れまじ 父を訪ねて北満の旅   歌子

(つづく)

走り続けた16年(20)

世界平和への思い②

平成20年1月31日、京都・綾部市長の四方八洲男氏が突然来庁されました。

四方市長とは旧知の関係で、前年の秋頃からイスラエル、パレスチナへの自治体外交を展開するため四方市長を団長に使節団を結成し、1月中旬に両国を訪問することで準備を進めてきました。

しかし、副団長の私が市政の課題への対応から急遽(きょ)不参加となり、訪問の報告のための来庁でした。そこで、四方市長から、「中東和平プロジェクト」の小金井市での開催を懇願されました。

この事業はイスラエル、パレスチナの紛争で家族を失った高校生を主催市に招いて、両国の友好親善を図ることを目的にする事業で、両国の紛争激化のために数年間中断していました。

平成20年度は、小金井市制施行50周年の記念行事等で手一杯であり、既に翌日の2月1日に予算書の印刷を行う予定であること、また、万が一この事業で不測の事態が発生したら国際問題に発展する可能性のあること等から即答せず、一晩考えをめぐらせました。

翌朝、財政課に予算書の印刷をストップさせ、「中東和平プロジェクトin小金井」の予算を組み込むことを決め、実施に向けて準備に入りました。

準備にあたり、庁内にプロジェクトチームや、市民による実行委員会、作業部会を設置し、日本イスラエル商工会議所理事であり市民の原芳道氏や、経験のある綾部市の職員の協力を受けて進めました。

私も、両国の大使館、外務省、東京都、警視庁、現地との連絡調整などの仕事に追われました。

2月に、12名の高校生の人選を現地の遺族会にお願いし、引率者の2名も決められました。

7月28日朝、パレスチナの1人が出国が認められなかったのは残念でしたが、一行はパリで合流し元気に成田空港に到着しました。

高校生は両国1人ずつ2人が組になり、一般家庭でのホームステイ、日本の高校生や市民との様々な交流事業、日本の芸術・文化、伝統芸能などの体験学習を通じ、若者たちの心が通じ合うのに長い時間は不要でした。両国の長い紛争で多くの悲劇が繰り返され、報復につぐ報復、憎しみの連鎖が簡単に断ち切れるものではありませんが、この交流を契機に彼等が英語で直接会話し、共に成長し真の友情が築けたことは最大の成果であり、和平に向けての一粒の種をまくことができたと確信しています。

兵役に就く年齢に近い両国の高校生が「お互いに銃を向け合うことはやめよう」と話していたとホストファミリーからの報告には、涙が出るほど嬉しいものでした。

首相官邸なども表敬訪問し、8月2日夜、成田空港で皆、抱き合って別れを惜しみました。私は無事帰国させることができ、責任を果たせたとの安堵の思いでした。

9月25日、ニューヨークの国連本部で麻生太郎首相が一般討論演説で「日本の市民社会が地道に続ける和解促進の努力」と称し、この事業を詳しく全世界に発信しました。一自治体の平和施策として外務省もその成果を高く評価しました。

事業の詳しい内容については、市の公式ホームページにアップされていますのでご覧ください。また、この有効親善事業がイスラエル、パレスチナの両国大使をお招きしての講演「国際理解講座」に引き継がれています。