走り続けた16年(236)

区画整理への道⑤

小金井市の命運をかけた東小金井駅北口の土地区画整理事業は過去2度の失敗もあり、困難を極め、平成10年9月、大久保慎七市長により事業推進のため第一の関門となる「施行規定を定める条例」が提案されましたが、1年以上も議決されず、特別委員会(特委)で継続審査が繰り返されていました。

私が就任半年後の平成11年11月5日に開かれた特委は6日(土)に続き、日曜日を飛ばして8日へと続きました。10時に開会した特委の冒頭、33人の反対住民から要望書が議長宛てに提出されたとの報告がありました。その内容を要約すると、「私たちは11月5日の特別委員会で、市長自ら57名の区域内地権者を回った結果賛成29名、反対23名、不明5名であり、市長はその地位、名誉、職責をかけて区域内地権者の過半数が賛成と明言した。しかし、私たちは現状の区画整理の進め方は地権者の意見を反映しておらず、このまま進めることに反対です。このため、区域内地権者として私たちは市長が政治生命をかけた賛成地権者に属さないことを宣言し、委員会での虚偽事実の発表に強く抗議し、継続して審査されるよう強く要望します」というものでした。33人の区域内地権者が要望書に署名し押印したものと私が頭の中で整理した29人の数字とどちらに信憑性があるかとの議論になりました。事業の執行には賛成だが公にはしないでほしいという地権者もいます。家族の中で、親戚間で、そして隣近所とのお付合いの中で賛成を表明するのは厳しいものがあります。私には賛成の意思表示をしても、反対住民に署名を要請されれば断ることができず、賛成反対の双方への意思表示になってしまうこともあるのです。その辺の事情は十分に分かっている議員ですが、それでも議論となりました。

午前10時に開会した特委は日付が変わった9日午前2時30分、与党議員から質疑打ち切りの動議が提案されました。11月6日の特委での質疑打ち切り動議は早すぎるとの私の判断から取り下げてもらいましたが、今回は採決となり可否同数で委員長裁決で質疑の打ち切りが決定しました。

そして、午前3時44分ついに特委で「条例」が採決され、一票差の賛成多数でついに可決されたのです。

この結果を受け、翌日10日の決算委員会の日程を急遽変更し、午前10時からの臨時会の開催を告示しました。異例の臨時会の開催です。本会議に先立つ議会運営委員会(議運)、本来であれば30分程度で済む議運が、何と本会議の開会は午後4時過ぎになりました。本会議では特委での委員長報告での質問と持論の展開がつづいた後、起立採決で賛成13、反対6、退席4人で原案可決と決定。本会議は午後10時20分閉会しました。あれだけ激しい1年2か月の激論の末の採決で、反対が僅か6人であったのは、職員の粘り強い努力の成果であり、その後の事業推進に好影響を与えるものでした。早速、補助金申請等の書類を携え、都の担当者が待機する都庁へは竹内實助役が持参し、多くの職員と見送りました。書類の提出が無事終了したことを確認し、小金井市の新たなスタートを実感し、日付の変わった平成11年11月11日を迎え、職員とともに私も安堵と喜びの中で家路につきました。

(つづく)

走り続けた16年(235)

区画整理への道④

平成11年4月26日に始まった私の任期は、選挙公約でもあり暗礁に乗り上げている東小金井駅北口区画整理事業を推進するため、地権者の理解を得ることに全力を注ぎました。

半年が過ぎた11月5日午前10時、小金井市の命運を懸けた市議会中央線・駅周辺整備調査特別委員会(以下・特委)が緊迫する雰囲気の中、多くの地権者やマスコミが傍聴する中で開会されました。

冒頭、私から「事業区域内地権者の過半数の同意を得たと認識している」との発言に「その認識に、市長の地位と名誉と職責を懸けての発言か」には、「政治生命を懸ける」との私の答弁に、特委は一層緊迫した状況の中で進行しました。

質疑は昨年9月議会に大久保慎七市長が提案した「小金井市都市計画事業東小金井駅北口土地区画整理事業施行規定を定めの条例の制定について」(以下、条例)が、反対する議員の条例の中身に入る前提条件の整理で、との理屈で入り口論が延々と続いていました。

17時半ごろになり、推進派議員から本題となる条例の中身の質問が出ました。それに対し、反対派の議員から次々と問題発言との異議が出て18時に休憩となりました。再開されると条例に対する答弁となりました。さらに、反対派議員から条例の中身に関しての関連質問が出されたことで、私はこれで出口が見えた、後は時間の問題との思いになりました。

日付が変わって、午前3時前、与党議員から質疑打ち切りの動議が提案されました。さらに、休憩動議が野党議員から出され、休憩動議が先議となり、採決の結果可否同数となり社会党の武井正明委員長はこれを否決しました。次は与党議員提出の質疑打ち切り動議の採決です。悪役を買って出て質疑打ち切りの動議を提案してくれた推進議員、可否同数の休憩動議を否決してくれた委員長、特委での1年2か月を経た懸案の「条例」採決は目前です。私は2〜3日の徹夜を覚悟していただけに、この時点での質疑打ち切り動議には困惑しました。区画整理事業完成には20年、30年とかかる大事業です。それが、まだ質問者が残っているにもかかわらず、強行採決は今後の事業の推進に大きな障害になるだろうと考えたのです。

私は委員長に休憩をお願いしました。委員長は「いいの、いいの、それでいいの」と繰り返し言われました。野党議員の発議の休憩動議を委員長の決断で否決し、その直後に私が休憩をお願いする不合理なのです。委員長は休憩を宣言しました。

休憩中私は与党の推進議員に質疑打ち切りの動議の撤回をお願いしました。それは、まだ条例に関する質疑が尽くされていない。強行採決をすれば、それを理由に事業の推進が困難になる。我々行政側は最後まで頑張るので質疑を続行してほしいとお願いしました。約2時間の協議の末、私の主張を受け入れてもらいましたが、決着を目前にして、私が質疑の続行を求めることで、その責任はさらに重くなりました。

午前5時に再開された特委では動議の撤回が承認され質疑続行の後、午後1時まで休憩となり、再開した特委は質疑が続行され、午後8時、8日(月)午前10時からの再開を決めて散会しました。

小金井市の命運を懸けた議決の期限は10日です。

(つづく)

走り続けた16年(227)

区画整理への道①

全国に鉄道の立体交差事業の要望が数多くある中、国の事業採択の基準は駅周辺の街づくりの熟度にあり、JR中央線沿線の各市は駅周辺の整備に全力を注ぎ、小金井市は紆余曲折の末、平成5年大久保慎七市長は東小金井駅北口の整備は土地区画整理事業で行うことを決定しました。

私は、東小金井駅周辺の土地区画整理事業には苦い過去があったことから提案に対しての事業推進には困難が伴うと感じました。昭和39年の東小金井駅開設にあたって初代の鈴木誠一市長は駅周辺の東町、中町、緑町と梶尾町を含めた142の区画整理事業の案を提案しましたが、地元の反対もあり具体化することなく消えてしまいました。現在進められている区画整理区域が10・8ですのでその広さが分かります。

昭和43年3月定例会に二代目の関綾二郎市長により提案された一般会計予算総額は約18億円で、その中に土地区画整理予算4千844万7千円が計上されましたが、予算特別委員会での質疑の結果、議会は全会一致で314万7千円に大幅に減額され、結局、執行されることなく終えてしまいました。この様な経過から地域住民には区画整理事業は『土地のタダどり』と刷り込まれることになりました。

私は、与党の一議員として区画整理を進めるべく取組みました。

それは、平成6年7月25日放映の日本テレビの「ニュースプラス1」の中で「ニッポン紛争地図」のタイトルで東小金井の区画整理事業が放映され「減歩」の解説に過ちがありました。また、市長を悪代官呼ばわりする等、その内容があまりに偏っていることから一人で日テレに乗り込み訂正放映を求めました。日テレ側には異議の申立と法的措置も辞さないと伝えました。その後、取材が再開され10月13日の再放送となり、内容は大きく変わりました。また、区画整理区域の多くの地権者の求めに応じて説明をするため、市の担当から説明を受けるとともに、全国でも最も区画整理事業を行っていると言われる日野市の区画整理課のK課長の指導を受けました。K氏はその後、副市長になり、退任後に問題を起こしたのは残念でしたが、その道のスペシャリストではありました。そこで得た知識で地元はもちろん、武蔵野市の境南や境、関前の地権者の求めに応じ説明に伺いました。

さらに、平成10年1月、都が付けた補助金が事業が進まないことから二度も執行を見送ったことで、今後10年ぐらいは補助金が付かないとの公式発言もあり、佐藤義明市議と予算をつないでいくため都の区画整理課を訪ねました。都庁では区画整理課の宮澤正課長と担当職員との面談予定でしたが、部長の高木正彦氏や道路監の石河信一氏の同席には驚きました。小金井市の街づくりへの期待もあり、再々度の予算措置の目的を果しました。

この様に行政とは別に独自の行動で区画整理に取組みました。

中央線高架化は区画整理の進捗次第ということから平成6年以降一定の進捗をみたことから、大久保市長は平成10年9月議会に区画整理事業執行に必須とされる「小金井都市計画事業東小金井駅北口土地区画整理事業施行規定を定める条例の制定について」を提案しましたが、議会の議決が得られず再び大混乱に陥りました。

(つづく)

走り続けた16年(213)

街づくりへの挑戦⑫中央線高架着工

昭和44年、中央線、荻窪から三鷹までの高架・複々線が供用開始されたが、三鷹以西の多摩地域は取り残された形となり、これが、三多摩格差のひとつとして、その解消が多摩地域の自治体には長年の懸案事項でした。

平成6年、沿線市が朝のラッシュ時のピークの1時間に、6カ所の踏切の開閉時間を調査した結果、1時間に踏切が開く時間は3分以内で、特に、武蔵境駅東側の五宿の踏切は全く開かず、武蔵小金井駅東側の小金井街道踏切は1時間のうち23秒開くだけでした。

国、都、そして、市も高架化は街づくりの一環であり、不即不離の関係にあることは共通の認識で一致しています。これをテコに沿線市の街づくりを進めるのですが、東小金井駅北口の区画整理事業が進まない中で高架化に着工することは、小金井市の街づくりがさらに遅れるとの懸念もありました。しかし、都は工事に必要な仮線路用地の8割が確保できたことから工事着工の方向に傾きました。

街づくりを進めず高架化を行うことは、これまでの国等の鉄道立体化の位置づけが根底から問われることになり、何としても東小金井の区画整理の進捗が望まれました。それが、国や都、沿線市との失われた信頼関係を回復することなのです。

平成11年に入り市政は慌ただしく動きました。中央線の高架化と沿線の街づくりは一体のものとしていた国も都も、東小金井駅北口の区画整理の進捗を待ち切れず、都は仮線路用地が一定の距離、確保されたことから、3月18日に『JR中央線高架化の着工式』を武蔵境の武蔵野スイングホールで行うことを発表しました。

私は、2月26日の記者会見で4月25日に執行される小金井市長選挙に出馬することを表明しました。翌27日、私を小学一年から育ててくれた養父が千葉県小見川町の実家で脳梗塞で倒れ17日後の3月15日逝去しました。通夜は18日と決まり、招待をされていた着工式への出席は困難となり東京都に突然の欠席を伝え了解されました。

中央線高架化に積極的に取組んできた社会党の常松裕志前衆院議員から、通夜は夜なので名刺を200枚ほど持って着工式には是非出席してほしい、ということで、当時、社会党にはお世話になることもあり出席することにしました。常松氏から早めに出席を、とのことから30分以上も前に着いたスイング11階の会場は中央線高架化の関係者でいっぱいで、その高揚感と熱気が溢れていました。私が小金井市長選の候補予定者であることから、次々に挨拶に来られる人々が私の前に列ができる程でした。中央線の高架の進捗は小金井市の動向次第であり、遅れている区画整理や仮線路用地の確保を急いでほしいという願望が挨拶の中からひしひしと感じられました。常松氏は、中央線高架事業に係る人々の小金井市に対する熱望を私に分からせたい、との思いだったのです。

型通りの式典終了後関係者は武蔵境駅近くの仮線路用地に移動し、鍬入式には残り任期僅かな青島幸男知事や沿線市長によって行われました。

大久保市長12年間の最後の提案となる平成11年度の一般会計予算は3月26日可決されました。しかし、区画整理事業に必須の施行規定を定める条例は継続審査になりました。

(つづく)

走り続けた16年(206)

街づくりへの挑戦⑩ 区画整理

国家的事業ともいわれる三鷹~立川間13・1㎞の連続立体交差事業は、昭和41年に中野~荻窪間、44年に荻窪~三鷹間の高架・複々線の共用が開始され、次は立川までの高架化と具体的に動き出しました。鉄道の高架事業と沿線の街づくりは「不即不離」の関係とされており、小金井市においては東小金井駅北口の区画整理事業の推進が、そのまま中央線高架化の進捗に連動するものでした。

東小金井駅北口の区画整理の停滞から高架事業も滞っていましたが、平成6年に入り区画整理事業が動き出したことから高架化も一挙に進み出しました。

区画整理が順調に進み始めたことから、平成10年9月定例会に区画整理事業に必須とされる「施行規定を定める条例」が市議会に提案されました。しかし、入り口論の質疑に終始し条例の中身に入れず、課題は先送りの繰り返しになりました。これにより、内示された国庫補助金は断念せざるを得ません。そのため、国鉄清算事業団が所有する貨物駅跡地を仮線路用地としての取得に補助金を財源とすることができず、私たち区画整理推進の与党系11議員で、補助金なしで小金井市土地開発公社による用地の先行取得を大久保慎七市長に申し入れました。

特別委員会で当局は地権者の71%が賛成としていたが、市の情報公開条例に則っての調査で、賛成者の中に反対の地権者が5名入っていたことが判明、市に訂正要求がされました。また、賛成の中には市や市の土地開発公社、都や区画整理関連の6団体、29人の区分所有者の集合住宅は、管理組合の代表の意向だけで全員を賛成にカウントする等から、ずさんな調査だとの指摘に対し、反論の言葉がありませんでした。また、当局の強気の発言が野党の一層の反発を招いていたのです。

条例が可決されないことなどから平成9年・10年と2年連続して内示のあった国庫補助金は取下げの手続きとなり、今後、補助金が得られない可能性がある、との指摘もあり、その様な事態になれば、中央線高架化の遅れとなり、国や都、近隣市との信頼関係が損なわれることが懸念されました。

私は、仲間の都議の紹介で、同僚の小金井市議会の佐藤義明議員と都庁の区画整理課を訪ねました。統括課長の宮澤正氏と担当職員との面談予定でしたがそこには、高木正彦部長も入り、さらに、石河信一道路監の同席には驚きました。小金井市議会に対する期待と中央線の高架化は都政の最重要課題とする鈴木俊一知事の思いが伝わりました。区画整理部との話し合いで、都は今後も全面的に協力していくとし、補助金の2年連続の返上を今後に影響させないというものでした。2人の議員の勝手な行動が役に立ったとの思いでした。石河道路監等にはその後も小金井市の街づくりに協力をいただきました。

区画整理の反対運動は盛り上がり、少数与党でもあり施行規定を定める条例が遅々として進まないことから、高架化のための仮線路用地の確保は、小金井区域は遅れていましたが、他市では着々と進み、事業主体である東京都は平成11年3月18日に中央線高架化工事の起工式を行うことを決定しました。

(つづく)