さくら通信

年一般参賀と靖国参拝

1月2日、新年恒例の一般参賀が2年ぶりに行われました。

昨年は、元日に起きた能登半島地震により、急遽中止になっていました。

参賀は、天皇皇后両陛下や上皇ご夫妻、秋篠宮ご夫妻など皇族が、皇居・宮殿のベランダに10時10分、11時、11時50分 、13時30分、14時20分の5回お立ちになられます。

私は妻と2人で2回目に参加しましたが、大勢の人波でベランダの皇族方は見えず、モニターを見ながら天皇のお言葉をお聞きしました。

そこで、40分程そのまま場所を移動してお待ちし、3回目のお立ちで改めて天皇のお言葉を拝聴しました。

天皇のお言葉は、昨年元日の能登半島地震や各地で起こった水害を案ずるものでした。

能登半島は地震の後、大雨による被害にもあっています。

国による超法規的対応をしてでも救済を急ぐべきと考えます。

報道によれば、この一般参賀者は6万690人だったようです。

その後、先の大戦で亡くなっ私の父を含む戦死者が祀られる、靖国神社を参拝をしました。

参賀、そして参拝で願ったことは、世界の平和と災害のない年であることと、能登地方の再建でした。

さくら通信

赤坂御苑での園遊会

平成22年9月28日付で宮内庁長官羽毛田信吾氏から、私宛の立派な封書が届きました。

菊の紋章の入った厚紙の案内状、内容は簡潔で「天皇皇后両陛下には来る10月28日赤坂御苑において、御催しの園遊会にお招きになりますのでご案内申し上げます」というものでした。

これは事前に宮内庁から連絡も頂いていたものでした。

数日後に招待者名が新聞で報じられたことから、多くの人々からお祝いの言葉をいただきました。私は自治体の代表として招かれたものでした。

私は、市長車には家族は乗せないことから、妻と赤坂御苑に電車で向かいました。

冷たい雨が断続的に降っていました。

案内状に、出席の服装はモーニング コート、モンツキ紋付羽織袴、制服または 背広とあり、私は背広にし、妻も少数派の洋服でした。

現在、上皇上皇后であられる天皇皇后両陛下が会場を回りになるなり、皇太子 、皇族の方が随従されます。

私は、園遊会経験者のアドバイスで、テレビに映る会場の中央よりその先で、天皇皇后両陛下を迎えしました。

天皇は私の方に向かって「あいにくのお天気ですね」と言われましたので、私は「いいえ、お招きをいただき光栄です。小金井市から来ました」と応えると、陛下は私のそばに来られ、「中学生時代を過ごした小金井市は懐かしい」と話されました。

私は「是非、小金井市にお越しください」と申し上げ、前向きなお言葉をいただきました。

それを聞いていられた皇后陛下が、「陛下は時々小金井市を懐かしく話されます」とおっしゃられました。

また、その後に来られた皇太子殿下に、妻が「娘が東宮御所にお伺いしました」に、「どうしてお越しになりましたか。雅子はいましたか 」と続き、妻は 「青年海外協力隊の任地への出発前の表敬訪問で、雅子様ともお話ができたそうです 」と会話がはずみました。

天皇御一家との短い交流になりました。

会場は雅楽や洋楽が奏でられ、所々に用意されたテントには、茶菓や食べ物が用意されていました。

冷たい雨の寒い1日でしたが、私たちには一生の思い出になりました。

私の退任後、天皇皇后両陛下が小金井市、小金井公園にお越しになられました。

 

走り続けた16年(113)

令和時代の幕開け

令和元年5月1日、歴史的な日を迎えました。天皇陛下が譲位し上皇陛下となり、皇太子殿下が即位する。平成の時代に幕を引き、新たに令和の時代の幕開けです。私たちにとっても人生の大きな節目であり、新たな人生の希望と喜びのスタートになります。

この令和の時代、世界中の人々が平和で豊かであることを願わずにいられません。

昭和から平成に代わった30年前は天皇の崩御に伴う改元であり、その前年の秋頃から行事や催しは「自粛」する状況であり、日本全国が暗く重苦しい雰囲気でした。しかし、この度は天皇陛下生前の譲位であることから雰囲気は一変しました。

平成の時代を生きた者にとって、天皇、皇后両陛下は国民の心の支えであり、高齢にも関わらず自然災害等で被災され、失意のどん底にある多くの人々に生きる力や夢を与え続け、その御姿に国民は感動を受けました。

私と妻は平成22年10月、天皇、皇后両陛下による赤坂御苑での園遊会にお招きをいただきました。出席に当たって、経験のある先輩から会場の中心より天皇がお回りになる少し先の方にいた方がいいとのアドバイスをいただきました。この日は雨が降ったり止んだりで、風も強く非常に寒い日になり、中止を心配する程でした。

天皇、皇后が会場を回られ、私たちの前にいらっした時、天皇から「生憎のお天気でしたね」と、話しかけられました。私は「お招きをいただき光栄です。小金井市から参りました」と申し上げると、陛下はすぐ近くに来られ、そこで小金井の話になりました。

天皇が皇太子時代の昭和21年4月、目白の学習院中等科が戦災の被害を受けたことから中等科の1、2年生は小金井町の小金井公園内にあった旧文部省教育研修所に移転しました。そのため、殿下は公園内の学習院中等科で学び生活されていたのです。昭和24年12月、皇太子殿下が葉山御用邸に滞在中、その小金井の東宮仮御所から出火、御所を全焼してしまいました。東側にある光華殿は類焼をまぬかれ、今でもたてもの園のビジターセンターとして現役です。

殿下は、24年学習院高等部に進学されてからも、小金井町から通学されていたとのことで、昭和26年3月までの青春の5年間を小金井町でお暮らしになられていたのです。

その様な体験から、小金井を懐かしく話され、途中から皇后陛下も加わり「陛下は時々小金井でのことを懐かしく話されます」とおっしゃられました。当然私は「是非、小金井市にお越しください」と申し上げ、快いお返事をいただきましたが、私の任期中には間に合いませんでした。寒く雨模様の悪天候が天皇と話す機会となったのは幸運でした。

また、平成28年秋の叙勲で旭日中綬章の栄に浴し、11月9日皇居に妻と参内し、天皇に拝謁するとともに受章者を代表して陛下に御礼の言上をさせていただき、天皇からお言葉をいただいたのは一生の思い出です。

国民と苦楽を共にした30年間に感謝申し上げたいと思います。

新しい時代のスタートにあたり、私自身も長期は不要としても、短期、中期の目的を持って令和の時代を生きていきたいと思います。

(つづく)