走り続けた16年(152)

新型コロナウイルス①

新天皇が即位し、新しい年号も令和と改められ、国民の熱望する令和2年、2020東京オリンピック・パラリンピック開催の年を迎えました。

全国の観光地は溢れる程の外国人観光客により賑わい、日本経済を大きく発展させました。また、オリパラに合わせての施設整備、外国人観光客を迎えるための街づくりや宿泊施設の整備など、全国各地で積極的に進められてきました。

オリンピックの象徴である聖火も、アテネから福島に空輸されましたが、新型コロナウイルスによって掻き消されてしまいました。

中国に発生した新型コロナウイルスにより、夢も希望も期待も一瞬にして砕かれるとともに、それは、瞬く間に地球全体に感染が拡大し、世界中を恐怖に陥れています。このコロナ禍は多くの生命を奪い、また、恐怖に晒すなど、かつてない危機感を発しています。これをウイルス対人類の「第3次世界大戦」となぞらえることもあり、世界経済にもかつてない大打撃を与えています。

これは、日本も例外でなく、政府は「緊急事態宣言」を発令し、感染拡大の防止に国を挙げて取り組んでいます。戦後75年、最大の危機に直面してる時ではないでしょうか。確立した治療薬もない中で、医療従事者は感染症が蔓延する状況下でも感染を防ぎながら患者の治療に当たっています。また、介護施設においても介護を必要とする高齢者のため、利用者の感染を防ぎつつサービスの提供を続けています。危険を感じつつ対応する医療従事者をはじめ、社会生活維持に不可欠な仕事に従事する方々の奮闘には心から感謝です。

コロナウイルスの感染拡大防止のため、政府の緊急事態宣言に伴い、事業者には休業や営業時間の短縮など。また、市民に対しても外出の自粛を要請しています。さらに、水際策の一環として外国人の入国を禁止するなどは、経済活動に計り知れない影響を与えています。見えない敵との戦いであり、それはリーマンショックの比ではないと思われます。

外出自粛等の効果もあり緊急事態宣言も解消され、徐々に経済活動が再開されていますが、感染の危機を抱きながらの消費者心理が上向くには時間がかかることになります。

ここは、国も都も、そして市も、政治が先導し、行政が市民生活を支える時です。今こそ、困窮している人々の立場に立った行動をする必要があります。

原資は、勿論市民の納めた税金であり、今、国民・市民は支援を求めています。そこで必要とされるものを納税者に還元することは当然であり、行政の果たすべき役割です。

小金井市においても、飲食業やそれに関連する事業者等は大変な苦境にあります。また、コロナによる解雇や雇い止めなど雇用環境の悪化も想定されます。市としても独自策なども立案し、市民生活安定のため努めなければなりません。

コロナ禍も一旦収まりつつありますが、今後、第2波、第3波も想定されます。私たちも、それにも、備える必要があります。

経済活動をはじめプロアマを問わず芸術・文化、スポーツ、休校に伴う学力の問題など社会生活全体に対応しなければなりません。

(つづく)

走り続けた16年(113)

令和時代の幕開け

令和元年5月1日、歴史的な日を迎えました。天皇陛下が譲位し上皇陛下となり、皇太子殿下が即位する。平成の時代に幕を引き、新たに令和の時代の幕開けです。私たちにとっても人生の大きな節目であり、新たな人生の希望と喜びのスタートになります。

この令和の時代、世界中の人々が平和で豊かであることを願わずにいられません。

昭和から平成に代わった30年前は天皇の崩御に伴う改元であり、その前年の秋頃から行事や催しは「自粛」する状況であり、日本全国が暗く重苦しい雰囲気でした。しかし、この度は天皇陛下生前の譲位であることから雰囲気は一変しました。

平成の時代を生きた者にとって、天皇、皇后両陛下は国民の心の支えであり、高齢にも関わらず自然災害等で被災され、失意のどん底にある多くの人々に生きる力や夢を与え続け、その御姿に国民は感動を受けました。

私と妻は平成22年10月、天皇、皇后両陛下による赤坂御苑での園遊会にお招きをいただきました。出席に当たって、経験のある先輩から会場の中心より天皇がお回りになる少し先の方にいた方がいいとのアドバイスをいただきました。この日は雨が降ったり止んだりで、風も強く非常に寒い日になり、中止を心配する程でした。

天皇、皇后が会場を回られ、私たちの前にいらっした時、天皇から「生憎のお天気でしたね」と、話しかけられました。私は「お招きをいただき光栄です。小金井市から参りました」と申し上げると、陛下はすぐ近くに来られ、そこで小金井の話になりました。

天皇が皇太子時代の昭和21年4月、目白の学習院中等科が戦災の被害を受けたことから中等科の1、2年生は小金井町の小金井公園内にあった旧文部省教育研修所に移転しました。そのため、殿下は公園内の学習院中等科で学び生活されていたのです。昭和24年12月、皇太子殿下が葉山御用邸に滞在中、その小金井の東宮仮御所から出火、御所を全焼してしまいました。東側にある光華殿は類焼をまぬかれ、今でもたてもの園のビジターセンターとして現役です。

殿下は、24年学習院高等部に進学されてからも、小金井町から通学されていたとのことで、昭和26年3月までの青春の5年間を小金井町でお暮らしになられていたのです。

その様な体験から、小金井を懐かしく話され、途中から皇后陛下も加わり「陛下は時々小金井でのことを懐かしく話されます」とおっしゃられました。当然私は「是非、小金井市にお越しください」と申し上げ、快いお返事をいただきましたが、私の任期中には間に合いませんでした。寒く雨模様の悪天候が天皇と話す機会となったのは幸運でした。

また、平成28年秋の叙勲で旭日中綬章の栄に浴し、11月9日皇居に妻と参内し、天皇に拝謁するとともに受章者を代表して陛下に御礼の言上をさせていただき、天皇からお言葉をいただいたのは一生の思い出です。

国民と苦楽を共にした30年間に感謝申し上げたいと思います。

新しい時代のスタートにあたり、私自身も長期は不要としても、短期、中期の目的を持って令和の時代を生きていきたいと思います。

(つづく)

走り続けた16年(112)

新元号は「令和」

平成31年4月1日の午前11時40分、菅義偉官房長官から平成に代わる新しい元号を「令和」と決定したことが発表されました。その日は朝から元号のことが頭から離れず、外出先のテレビで新元号の発表を知りました。テレビや新聞等マスコミの報道を聞く中で、音もきれいで響きがいいことなどから他の案と比較されることもなく国民に好感を持たれる元号だと感じました。

「令和」は『万葉集』から引用され、元号に日本の書物から引用されたのは初めてとのことで、これも国民に歓迎されたのではないでしょうか。

安倍晋三首相は「令和」について、記者会見で「人々が美しく心を寄せ合う中に文化が生れ育つという意味が込められている」と説明しました。また、「悠久の歴史と誇り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へ引き継いでいく。厳しい寒さの後の春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込め、『令和』と決定しました」とも述べられました。

元号が代わることから、自分なりの元号を考えた方も多かったことと思います。私は、「永和」と考えました。国書でなく、中国古典でもなく、単純に「永久の平和」を願ってですが、後になって南北朝時代の1375年に北朝に永和があることを知りました。元号は、その時代を生きる人にとっての道標でもあり、それに対する思いや、その使われることの多さなどを考えると決定には大変なご苦労があったものと思われます。

元号が平成に移る時は、昭和天皇の崩御に伴う自粛ムードの下での改元で、喜びの中でとはなりませんでした。しかし、今回は高齢になられた天皇陛下が平成28年8月に、国民向けのビデオメッセージで「象徴の務めを果たしていくのが難しくなるのではないか」と述べられたことから退位について各方面で議論になりました。

皇室典範では皇位継承は天皇が崩御した場合に限られる、とあり退位の実現には典範の改正が法改正が必要であり、国民の動向等を踏まえて特例法の成立となったものです。

元号は皇太子さまが即位する5月1日午前零時に改められることになります。

昭和33年に市制を施行した小金井市の昭和は苦難の歴史であり、昭和50年前後の市政は小金井の歴史を大きく狂わせた時代でした。

その後、平成の小金井市は、昭和の失政を正すことに専念するものとなりました。

私にとっての平成は43歳から74歳までで、元年に市議会議員2期目がスタートし、4期14年の後、市長4期16年の計30年間の市政への取組は、正に平成の時代のもので平成11年4月「令和」に通ずる「一陽来復」を心の支えに市長に就き、全国ワーストの財政再建、開かずの踏切り解消のJR中央線の高架化や沿線で最も開発の遅れた両駅周辺整備等に取り組んだ30年間であり、その平成が終わることは極めて感慨深いものがあります。

(つづく)