さくら通信

ゴミ拾い (その2 )
野口健の エベレスト 清掃活動

アルピニストの野口健さんは、平成11年のエベレスト登頂成功で、世界7大陸の最高峰を最年少での登頂を果しました。

当時、野口さんは亜細亜大学の学生で梶野町に住んでいました。エベレスト登頂は3度目の挑戦で達成されました。

このベースキャンプは、各国の登山隊が廃棄した大量のゴミの山であり、野口さんはその清掃活動にも取り組みました。

ある日彼から電話があり、橋本龍太郎氏に合わせてほしいとのこと、橋本事務所と連絡を取り橋本さんに会わせました。

野口さんの手土産は、橋本さんが隊長を務めたエベレスト登山隊の名前の入った空の酸素ボンベでした。ゴミの山の中から出てきたものです。

私は橋本さんの虫の居所を心配したのですが、面会を終えた野口さんから、喜ん受け取ってもらいました、との報告で安心しました。

その後、麹町の橋本事務所に行くたび、応接室の棚の真ん中に飾られているそのボンベを確認していました。

野口さんには、市の職員との交流や、市立緑小学校の生徒と浴恩館公園の周辺の清掃活動などもしました。

小金井市環境賞を制定す際、私はサブタイトルに「野口健賞」を提案しましたが却下されてしまったのは残念でした。

現在野口さんは、エベレストや富士山の清掃活動をはじめ、多方面で活躍されています。

彼の結婚式は、公務のため出席できなかったのは残念でした。

 

さくら通信

ゴミ拾い(その1 )
星野哲郎の空き缶拾い

私の選挙や政治活動を支えてくれた作詞家・星野哲郎(有近 哲郎)氏は、夜明け前の暗い時間に梶野町の自宅を出られて、小金井公園で空き缶拾いをされていました。

荒天の時、奥様から「今日はやめたらと言われると、ムキになって出かけるんだよ」と笑って話していました。

その日に拾った空き缶の数と、それまでの合計を記入した手帳は、細かい数字でびっしりでした。また、節目の数になると連絡をいただいていました。

星野さんには、小金井市の教育委員も務めていただきました。

平成9年12月定例会での任命には退席9議員で、他は全員が賛成だったのが、平成13年12月議会では、賛成14反対7退席2で同意されましたが 、7人の反対はショックで、星野さんは教育委員を辞退したいと伝えてきました。

市役所近くの星野哲郎事務所で話しあったが翻意に至らず、数日後に手紙が届き「 私にも名誉も誇りもある。あなたに頼まれると断りにくいので、これ以上説得しないでほしい」という内容の手書きの手紙が届きました。

いかに粘り強い私も諦めざるを得ませんでした。

その後、星野さんは蟹工船も作詞しているんですね、の声もあったが後の祭りです。

腹の中で「みだれ髪などを歌うなよ」と言っていました。

星野さんは、小金井市最初の名誉市民てす。

 

さくら通信

わたしは悪い公務員

東京都市長会は前原町5丁目と接する東京都自治会館に26市の市長が集まって毎月会議が開かれています。

その会議の前後や休憩中の情報や意見交換は非常に意義のあるものでした。

いつの市長会だったか記録が見当たりませんが、一人の市長から「『私は悪い 公務員』って本読んだ?」との声が出ました。それに、数人の市長が反応し「これを書いたのはうちの職員だと思うよ 」との声も複数ありました 。

この本は 平成5年に出版されたもので 私もすでに読んでいて、小金井市の職員かOBが書いたと思っていました。

昭和33年の市制施行して数年後、市は職員組合執行委員長を職務命令違反で懲戒免職にした。しかし、組合の激しい復職運動で5年後に当局は懲戒免職を撤回した。復職した委員長は影の市長とも天皇とも呼ばれるようになり、組合はさらに強力になり市長を監禁、暴行、上司の吊し上げ、人事介入、議場への乱入など暴力的行動がまかり通っていた。市民には信じられないような労使関係が陰で続き、近くに所在していた小金井警察署は歯ぎしりしていた。

その本の著者名は金井次郎とあり、内容はかつての小金井市役所の体質から生まれたものと思われるものでした。副題には「3日やったら辞められない地方公務員の優雅な日々」とありました 。

大久保市政の3期目頃から組合の体質が徐々に変わり、私の時代の職員は常に前向きであり「模範的な公務員」であり、このような会話にはついていけませんでした。

さくら通信

ピアノはスタインウェイ

毎週土曜日の朝は「題名のない音楽会」です。

昨日も同様でした。ピアニストは藤田真央さんでゲストは宇宙飛行士の野口聡一さんで先週の続きでした。

ピアノ演奏もお二人のトークも素晴らしのですが、私がいつも気になるのはピアノの側面に書かれたSTINWAY&SONの文字です。

市民交流センターの建設には内装や備品、緞帳や客席の椅子なども決めることは山程あります。

落語家の座布団も市議会の議論の対象になりる程でした。

その中にはピアノもありました。専門家は当然のように一階のホールは国産で大ホールはスタインウェイとのことでした。

全く知識のない私は方々に問い合わせスタインウェイに決めました。予算は2千万円です。

諸般の事情で建設が遅れていたことから2千万円を超えることが危惧されました。

2千万円を超えれば議会の議決が必要です。

座布団まで議論の対象になる市議会です。報告された金額は確か1,950万円でした。

次は横浜の倉庫に沢山あるスタインウェイの中から1台を選ぶのです。素人では到底無理です。

そこで、プロ中のプロであるピアニストの小山実稚恵 さんにお願いしました。

市民交流センターがオープンした後、小山実稚恵さんのコンサートの前日、大ホールでのリハーサルに市の担当だった川井修部長と数人が招かれてお聴きしたのは最高の贅沢でした。

スタインウェイのピアノを見るたびこれらのことを思い出します。

走り続けた16年(276)

給与制度の革命

平成10年3月に定年退職する33人の職員の退職金が財源不足により支払えない状況に陥り、全国的にも異例な退職手当債(借金)9億5千万円の発行を平成9年2月市議会の一般会計予算に計上し議論の末に議決した。

しかし、起債(借金)するには国と都の許可が必要であり、総務省は小金井市に起債の条件として多すぎる職員の削減、公共料金の市民負担の適正化、そして、年齢により給与が決まる年齢給から職務・職階による職務給への変更を許可条件とした。課題は昭和37年の「幻の37協定」に基づいて制定され35年間も続いている「年齢給」を「職務給」に変えることであり、部長も一般職も、現業も事務職も、職務・職階、職歴、学歴も関係なく年齢が同じなら同じ給与の悪弊を改善することで数年前から職員組合に提案していたが、既得権を頑強に守ろうとすることから交渉に入ることすらなかった。

しかし、仲間であり組合員である職員の退職金に直接係わる問題であることから平成8年度の団体交渉からは無視することにはならず、12月27日当局は改善策を提案。翌9年5月21日に具体的に給与表を提示し交渉が続いた。同一年齢であっても職務・職責により賃金格差が生じることになり、現業と非現業間でも格差が生ずる当然の職務給への移行です。給与制度改正の絶好のチャンスが到来したのです。

また、9年3月に行われた市議会議員選挙では給与制度の改革を主張した候補者が多く当選を果していた。

労使交渉は膠着状況になりなかなか進展しません。私は、労使合意ができないことを理由に市長が給与条例の改正案を議会に提案しないのであれば、議員提案で条例の改正をする準備を進めた。私の作成した給与条例の改正案は市長案より厳しいもので、その条例案に不備がないか担当部課にチェックをお願いした。これにより、私が条例案を準備していることが組合側にも当局にも広がった。

大久保市長の答弁から「国は給与制度の改正ができなければ赤字再建団体(倒産)になるのも止むを得ない、再建団体にした方が再建が早い」との見解を持っていることを知った。国の厳しい対応は望むところであった。

組合は当局の提案を拒否すれば、市議会の構成から議員提案の職務給導入の条例改正が可決される見通しから決裂を避け労使協議は継続された。

労使は12月中旬からは連日のように公式・非公式の折衝を行っていた。起債申請のタイムリミットである10年2月16日共産系の小金井市職員労働組合との交渉は決裂した。しかし、主となる自治労小金井市職員組合の執行部は「妥結せざるを得ない」との雰囲気に傾いた。そして、組合の緊急拡大職場委員会で妥結案が説明された。もし、起債ができなければ組合員の定期昇給やボーナスのカットも想定され、妥結しなければより厳しい議員提案の賃金体系になることなどが説明され、時間をかけて同意を求めた。執行部は採決に当たって挙手ではなく拍手での同意を確認し組合員に承認された。

それを受けて待機していた当局と17日未明から開かれた団体交渉で職務給の導入が合意され歴史的な節目を迎えた。より職責と能力、意欲のある職員が給与の面でも恵まれなければならないのです。

労使交渉を常にチェックしてきた私は労使合意ができなければ議員提案での条例改正の準備が出来ていたので不安は無かったが、組合が同意したことで混乱することもなく議会への「職員の給与の一部を改正する条例」の提案となり、本会議に上程後、私が委員長を務める総務委員会に付託された。3月16日の委員会で質疑となりました。主たる質問は二つある職員組合の片方でなく両方の了解を得るべきだとの質問でした。他にも案件が多く採決は日付を越えた1時過ぎとなり、共産党が退席し残りの全委員の賛成で可決された。

30日の本会議も退席の共産党を除く全議員の賛成を得て、35年の長い間市民を苦しめ続け、混乱させてきた年齢給、最悪の制度に終止符が打たれた。

(つづく)