走り続けた16年(260)

不信任で議会解散そして辞職

昭和55年12月8日に開会した定例会は12日(金)佐野浩議員の一般質問「市民の血税の使途はこれでよいのか!」で、10月8日〜9日北海道釧路市で開かれた「全国都市問題会議」での星野平寿市長の公務出張の質疑で議会は大混乱に陥った。

これは、11月の決算委員会に出された「都市問題会議」の資料に基づき一部議員は入念な調査をしていた。

佐野議員は「いろいろ噂が飛び交っているが事実でなければ市長も迷惑であろうから確認します」と切り出し星野市長の会議の出欠席や、所在不明時の行動等を質した。質疑は答弁調査の休憩もあり延々と続き、15日(月)も日程変更し佐野議員の一般質問が続いた。さらに休会予定の16日も続いたが、本会議の開議宣告だけで会議は開けず空転のまま協議が行われ、午後3時すぎ星野市長が鹿野勇議長に「退職申出書」を提出した。これを受け17日を定例会最終日に繰上げ、各委員会を開催し補正予算等を即決した。最後に星野市長の辞職の挨拶があり午後5時前に大混乱の議会が終了した。

それが3日後の19日夕方、星野市長が突然議会事務局に「退職申出書の撤回届」を提出。自らの意思で辞職する場合、行政の混乱を避けるため、辞職は20日後になります。そのため撤回が認められ平常の形に戻った。

この一連の星野市長の動きはマスコミの好餌となり、市役所はテレビカメラや記者による取材合戦となり、年末・年始を通し連日報道番組や新聞で全国に混乱が報じられた。

同時期の昭和56年1月中旬「川上紀一千葉県知事が副知事時代の昭和49年春、知事選の選挙資金として都内の不動産業者から現金5千万円を受領した。その際『貴下の事業発展に全面的に協力するとともに、利権等についても相談に応じます』との署名入りの念書を入れた」と新聞が報じた。新聞やテレビの報道番組等マスコミは連日知事の念書問題と市長の北海道出張問題がセットで報道され、千葉県銚子市出身の私には辛い時期でした。

川上知事は「念書」を認め2月27日県議会で辞任が認められた。

2月4日、混乱する市政の中、議員の招集請求による異例の臨時会が開かれた。それは星野市長の不信任を決議するのが目的で、市長から一連の経過の釈明があり、これに全議員が質問する形になった。二転三転する答弁に複数の保守系与党議員からも「真実を話すように」との発言が出るのでした。質疑は日付を超えて続き、ついに市長は体調不良でダウン。回復には1週間との診断で17日に再開したが、市長は欠席のまま不信任案が上程され説明、質疑、討論後の採決で賛成24、反対2で可決された。

法により不信任が可決された場合、市長が辞任するか議会を解散するかを10日以内に決することになります。星野市長は2月26日に自らの辞任ではなく議会の解散を選択した。

それに伴う市議選が4月6日に行われ星野支持派は全滅となり、13日、新議員の初顔合わせが行われ、その後の全員協議会で「市長の即時退陣要求」を全議員の賛成で決めた。

4月19日星野市長は議会事務局長に「退職申出書」を提出し5月8日で市長を終えた。

5月31日に行われた市長選挙は3人が立候補し自民党の保立旻氏が当選を果した。

(つづく)

走り続けた16年(128)

市議会議員として⑨

昭和60年5月の市長選挙で相手候補の倍近い得票で圧勝した保立旻市長の2期目はスタートから非常に厳しいものになりました。

2期目スタートして間もなく、現業職員5人を採用することにより絶対多数の与党体制は1か月も経ないうちに亀裂が入りました。それは、保立市長を支える与党議員の選挙公約に反するもので、市長の選挙公約にも反する内容だからです。

さらに、保立市長が苦しんだのは、調布、府中、小金井の3市の可燃ごみを共同処理していた二枚橋焼却場の建て替え問題でした。

これは、3市の市民の排出する可燃ごみは、昭和33年以来3市の市域に跨がった二枚橋の区域で焼却処理をしてきました。

しかし、施設の老朽化による焼却量の低下と、人口増によるごみ量の増加により安定的な処理が困難になり、早急な建て替えが必要とされました。そこで、3市を代表する6人の議員で昭和57年7月以来、建て替えに向けての協議・検討を進めていたのです。

昭和59年3月の小金井市議会の市長報告で「現有敷地内で現有施設を稼働しながら建て替える基本計画が示され、昭和59年度予算に施設近代化に関連する予算が二枚橋組合議会で可決されている」との報告がされました。保立市長は本計画に沿って進めていく考えを示しながら、他の2市とは立場が異なるとし、地域住民との対応を優先して考えたい、と複雑な心境を吐露していました。

そして、昭和59年9月、市議会の全員協議会で保立市長は、「ごみ焼却事業について3市共同による組合運営を堅持する」とし「焼却施設が老朽化し日常のごみ処理にも支障が生じてくるので、現有敷地内で現有施設を稼働しながら建て替えることを基本計画とする施設近代化計画を進める立場である。従って、小金井市により凍結されている近代化基本計画に関する二枚橋衛生組合予算の凍結解除を認めてほしい」と議会に要請しました。

これに議会側は近代化の具体案が明らかにされていない上、環境影響事前調査の実施に関し地元の同意が得られていないこと等が指摘され、凍結解除に関し議会の理解は得られませんでした。

昭和59年12月の市議会では、二枚橋焼却場については早急に建て替えを進め、公害等を解消する立場で対処したいとの方針が示されたのに対して、住民に迷惑をかけない施設とすること等を二枚橋衛生組合に意見具申していくよう市長に申し入れました。市長は、市議会の要望に対し、「意向を承って今後二枚橋衛生組合に十分意見を申し上げるよう努力していきたい」と答弁しています。

それが、昭和60年当初に行われる市議選や市長選の直前の市議会で、他の場所に第2工場の建設計画を二枚橋焼却場の建て替え計画と同時並行で進めるべきであるとの内容の「二枚橋焼却施設近代化計画に関する決議」が全会一致で議決されたのです。

この決議は、小金井市側から見れば当然の要求のようにも見えますが、調布、府中の2市には逆鱗に触れるような内容であり、多摩地域全市においても小金井市のこの対応は大きな不信感を生むことになりました。

(つづく)

走り続けた16年(127)

市議会議員として⑧

昭和60年3月31日市議選に続いて、5月26日の市長選で二期目の当選を果たした保立旻市長を待っていたのは想像を越す職員組合の手荒い歓迎でした。

3月31日に施行された定年制により37人の職員が退職し、その欠員補充を求める職員組合と不補充を主張する保立市長の間で激しく厳しい労使交渉が行われました。その結果、5人の現業職の採用は市長辞職を覚悟しての決断でしたが、与党議員の一部には反発があり、結果、10月に大久保慎七助役が責任を取る形で辞職しました。

議員になって数か月の私にはこの経過を追っていくのが精一杯であり、全体を取りまとめることには到底なりませんでした。

保立市長が苦しんだのは、調布、府中、小金井の3市の可燃ごみを処理していた二枚橋焼却場の建替え問題でした。それを検討し、進めてきたのを、昭和60年3月末の市議選の直前の2月13日、市議会定例会で「二枚橋焼却施設近代化計画に関する決議」が全会一致で議決されたのです。その内容は『今日まで二枚橋衛生組合で、現敷地内において焼却場の施設近代化計画が検討されておりますが、小金井市民に二枚橋焼却場から排出される公害等により長い間被害を被ってきたところであります。

したがって、老朽化した二枚橋焼却施設を建替えるについては、小金井市民の現状を十分にしんしゃくし、公害のない、住民に迷惑をかけない施設とし、かつ、他に第2工場を建設することが付帯条件であります。ついては、第2工場の計画検討を近代化計画と同時にすべきであることを小金井市議会として意見、決議します。』というもので、私が市議会議員になる2か月前に市議会で議決されていたのです。

これは、老朽化した二枚橋焼却場の建替えを目的に、昭和58年7月二枚橋衛生組合議会に3市6人の議員による施設近代化特別委員会を発足させ、組合事務局の研究報告を参考に、焼却施設の現状把握と現施設の問題点についての協議や研修視察を実施し、意見の交換を行っていた矢先のことだったのです。

小金井市民は議会が全会一致であることなどから、特段、問題のある決議とは思えず、市議選の争点にもなりませんでした。

しかし、調布、府中の両市にとっては到底受け入れられるものではなく、不信感を募らせることになり、その後の小金井市のごみ行政に大きな影響を及ぼすことになりました。

それは、3市にまたがる現施設の建替え計画の最中に、新たな第2工場の建設計画を同時に進めるべきであるということに両市は到底納得できるものではなかったのです。また、この決議が小金井市議会議員の誰一人反対もなく可決されたことも重大でした。

人口増によるごみ量の増加と、老朽化による焼却量の減少のギャップで、施設を早急に建替えるべき時に大きな難題を小金井市から突き付けられることになったのです。

保立市長が全会一致で議決した小金井市議会の第2工場論を主張すれば、調布、府中両市と対立関係になり、その狭間で苦しい対応が求められました。

(つづく)

走り続けた16年(126)

市議会議員として⑦

保立旻市長の2期目が昭和60年6月3日スタートしました。保立市長の主たる選挙公約も職員削減などの行財政改革でした。3月31日定年退職した37名の欠員補充を求める職員組合との連日の労使交渉は暴力的であり、精神的にも肉体的にも苦痛を伴い自尊心を傷つけるものでした。

6月12日、私にとって最初となる小金井市議会第2回定例会が開会されました。初日の議会が終了した後、当局は職員組合と労使交渉が続行されました。日付の変わった午前3時頃、議会控室で待機していた私に、現業職5名の採用で妥結したことを市長から聞かされました。市長も与党議員にも直前の選挙の公約に反する内容でした。当選し2週間余り、市長の辞職を覚悟しての妥結でした。

絶対多数の与党体制でした。本来なら、安定した議会運営ができるものが、この現業職5名の採用により与党体制は一枚岩とはいえない状況になり、行革に対する対応が甘いという厳しい批判が続きました。

この結果、大久保慎七助役が責任を取る形で10月12日、一身上の都合ということで退職願いが提出され、任期を1年半程残して10月31日辞職しました。

その大久保助役の後任の人事案件での議会質疑の中で「大久保助役を慰留しなかったのか」との質問に、保立市長は「6月から慰留に努めてきたが意思が堅いので…」との答弁でした。なんと、6月の現業職員の採用時に市長も助役も辞職を考えていたのです。

議会与党からは厳しい行革が求められ、反社会的団体を思わせる職員組合との狭間で大変な状況でした。

新しい助役は、東京都の情報連絡室報道部庶務課長の市川正氏が市の要請により就任することになりました。大久保助役の退職前に市川氏の名前が出てしまったこともあり、行革を恐れる組合の反対運動は、勤務先の都庁や居住する町田市でも天下り人事反対の運動が展開されるという異常な状況でした。

市川氏の選任同意に対し「都からの出向人事は自治権の放棄ではないか」との意見もありましたが、本会議で賛成多数で即決されました。

しかし、議会は混乱が続き、12月23日の最終日も、助役就任時の混乱で与党議員が負傷した問題の打開策の調整が整わず、会期を1日延長しました。しかし、24日も空転が続き、再び会期延長を諮るため午後5時直前、本会議を招集したが出席議員が定足数に達せず、会議規則により自然閉会(流会)となり、市長提案の補正予算3件と市民から出された請願・陳情23件は審議未了廃案になってしまいました。

その後も、市議選直前の昭和60年2月に市議会の「二枚橋焼却場施設近代化計画に対する決議」への対応や、貫井北町1丁目への「粗大不燃ごみ処理施設」(小金井市中間処理場)の建設や管理運営、そして、老人入院見舞金支給条例の議員提案など、大きな難題に直面した保立市長に大変なご苦労をいただくことになりました。

また、12月議会で廃案になった議案、請願・陳情27件は2月5日から7日の臨時会で対応されました。

(つづく)

走り続けた16年(115)

市議会議員、そして、市長として②

私が小金井市に転入してきた昭和48年は、革新市政の下で大量職員の採用が行われていました。それは、市にとって取り返しのつかない失政と言わざるを得ません。その結果が昭和50年代の10年間に、小金井市の人件費比率は全国ワースト1位が8回、後は2、3位が各々1回という惨たんたるもので、高比率はその後も長く続くことになりました。

私は、この市政を改革し、財政を健全化したいという思いから市議選への立候補を考えていました。そのための準備として小金井市の財政問題について調べるほど、誰のための市政なのかと怒りを覚えるような市政運営が行われていたのです。

市議選出馬を考えていた、昭和58年1月14日朝刊に、4月の武蔵野市長選挙に土屋正忠市議会議員が立候補すると報じられました。土屋氏とは旧知の間柄であったことから、早速、選挙区ではないが選挙の手伝いをさせていただきたいと申し入れました。

選挙の手伝いはポスター貼り、ビラ配り、車の運転などの単純労務ですが、選挙に直接関われたのは私の貴重な経験となりました。

当時、武蔵野市も革新市政が続いており、現職の藤元正信氏の二期目が強いという評価から自民党は候補者の擁立ができず、ついに土屋氏に白羽の矢が立ったのです。

この選挙戦の終盤、職責に関係なく支給される4千万円の高額退職金が争点になりました。両候補とも退職金の是正を訴えましたが、新人の土屋候補が現職に859票の僅差で勝利しました。

当選した土屋新市長は5月2日初登庁し、日本中が注目する中、4千万円の退職金是正の公約実現に取り組みました。17日には改正案を職員組合に提示し連日の団体交渉が続きました。改正案は大幅な引き下げ案だったことから、自治労都本部は現地闘争本部を市役所内に設け、全国から動員された2千人といわれる自治労組合員が武蔵野市役所を取り囲み、それに抗議する右翼団体の街宣車、いざという場面に備えて待機する機動隊、それを取材する報道陣、上空は取材用のヘリが舞い、庁内では腕を組み列を作ってのジグザグデモが行われ、ついに26日職員組合はストに突入、武蔵野市全体が大混乱に陥りました。

全国民が注視の中、市長自ら徹夜の団交を繰り返し、ついに28日未明に労使合意を果たしました。妥結の内容は、7月1日から約1千万円の減額というものでした。

私は、市長選と同時に当選した自民党の武蔵野市議会議員と大混乱の市政の現状を訴える街宣車で、市内遊説に同行するなど行動を共にさせていただきました。そのため、高額退職金是正に燃えた30日間の「武蔵野ショック」を直接現場で目の当たりで体験できたことは、その後の私の政治活動の大きな糧になりました。

その後も行革を進める土屋市長は地方行革のトップランナーとして、土光臨調、中曽根行革と並び称され、その地方行革が燎原の火となり全国に広まっていきました。

そこで私は、市政は変えられるということを実感したのです。

この経過は、武蔵野市が発行した『武蔵野ショック』に詳細に書かれています。

(つづく)