走り続けた16年(193)

街づくりの挑戦 中央線高架

中央線は明治22年私鉄の甲武鉄道により敷設されました。当初の計画は甲州街道沿いの路線だったようです。しかし、計画路線区域の理解が得られにくいことから、新宿から立川を直線で結んだ線に変えたとのことです。その線が小金井村の真ん中を南北に二分する位置になりました。

小金井市の街づくりが進まなかったのは財政難と中央線の線路と道路との平面交差に原因がありました。

小金井市にとって中央線の恩恵は計り知れません。それは、都心への利便性などにより大きく発展できた要因でもあります。一方、多摩地域の通勤・通学者等の急増により、過密な列車ダイヤにより「開かずの踏切り」の発生となりました。

昭和44年に中央線荻窪駅から三鷹駅までの高架が完成し、次は三鷹から立川までとの期待が膨らみました。中央線は多摩地域の背骨であり大動脈でもあります。そのため、立川以西の自治体にとっても輸送力増強につながる中央線の高架に期待が高まりました。特に小金井市においては中央線が市域を南北に二分し、朝晩のラッシュ時は踏切りが開かず、特に武蔵小金井駅東側の小金井街道踏切りの遮断機が上がるのは1時間で1分間前後であり、「開かずの踏切り」の呼称は全国にその名を馳せていました。

三鷹までの高架が完成したことから、同年立川以西も含み、多摩全域の20市3町1村の参加により「三鷹—立川間立体化複々線促進協議会」(複促協)が設立されました。しかし、この高架化により最も恩恵を受けると思われる小金井市はこれに参加しませんでした。それは、複促協に加入することにより国鉄のペースで事が運んでしまうことを危惧したようです。しかし、昭和55年に11年遅れての加入となりました。

この複促協は促進を決議はするがなかなか進まず「停滞協」と揶揄されていました。

昭和58年、武蔵野市長に就任した土屋正忠氏が、鈴木俊一都知事や青梅市選出の都議会自民党幹事長の水村一郎氏などの力を借りて、中央線を動かすことになりました。

高架促進の大きな問題は、建設費の「地元負担なし」を全会一致で決議している小金井市議会を翻意させることでした。その根拠は荻窪—三鷹間の高架化には地元負担が無かったことを例に挙げてです。しかし、国や都の考え方は、東京都の区は都市計画税を撤収せず、都が課税主体になることから都が負担することになるが、市は、都市計画税を徴収してることで市が一部負担することになる、という解釈でした。

当時、2千億円近い総事業費の内、小金井市の負担は約90億円といわれていました。

小金井市が地元負担ゼロを主張してる限りこの事業は進まないことになります。都心から立川まで高架になり、小金井市域だけが地上を走るということにはならないのです。

昭和60年、市議会議員になった私は、古くからの友人でもある土屋氏の指導を仰ぐことになり、このままでは何年経っても高架化はできないことから、保立旻市長と地元負担について話し合い、引き継いだ大久保慎七市長が地元負担を決断し、停滞していた三鷹—立川間の高架化が進むことになりました。

(つづく)

走り続けた16年(114)

市議会議員、そして、市長として

本年は統一地方選挙の年で、この4月に前半と後半に分かれて行われました。私たちに身近な多摩地域の市長選、市議選は後半の4月21日に執行され、5市の市長選と20市の市議選が行われましたが、小金井市は選挙がありませんでした。

小金井市の市長選や市議選が統一選挙から外れているのは、市長の度々の辞職に伴うことと、市議会の解散によるもので、ここに市政運営の困難さが象徴されています。

私が小金井市に転入したのは昭和48年9月で、学生時代は小金井公園に近い田無市(現・西東京市)に住んでいたことから、将来住むなら小金井市という思いがあり、一旦戻っていた千葉県の実家から転入してきました。

当時、東京都は美濃部革新都政であり、多摩地域の自治体、特に中央線沿線は革新ベルトラインと呼ばれ社会党、共産党による市政が執行され、小金井市も同様でした。

革新市政の下でどのような市政運営がされているのか、その実態はなかなか市民には伝わりにくいものです。小金井市では2期8年の間に662人が1千130人への大量職員の採用が行われていたのです。

私も、子どもが生まれ保育園に入園するなど実感として生活に不自由を感じることはありませんでした。それが、年月が経ち他市と比較する等すると考え方が一変するのです。

子どもが少しずつ成長し、夏にプールに行くにも市営のプールが小金井市にはないのです。辛うじて、ごみ焼却施設の地元還元である二枚橋衛生組合にプールがありましたが、学校のプールの形体で幼児が遊べる施設ではなく、仕方なく子どもをつれて遊園地に行くことになりました。

そのようなとき、府中市の健康運動センターのプールを知り利用させてもらうようになりました。府中の施設は流れるプールや幼児用のプールなども整っており、遊園地等と比較しても遜色がなく、料金も格安でした。そのため、小金井市民は子どもも大人もバスを乗り継ぎながらも利用していました。

料金設定は市内と市外に分れていて、府中市民は市外の人の半額でした。そのため、市内と書かれた料金所に小金井市の子どもたちも並ぶのです。

大人と一緒ならこの様なことにはならないでしょうが、子どもたちがグループで来たときには知恵が働いてしまうのです。

このことは、私にとっては耐えられない辛い体験で大きなショックを受けました。そこで、なぜ自治体によってこんなに公共施設に格差ができるのかを考えさせられました。

以来、図書館で関係資料を調べたり、議会の傍聴もしました。また、市民団体である小金井市行革推進協議会に入会し、会員同士で市政について調査・研究、議論もしました。

その結果は、革新市政の大量職員の採用による人件費の増大につきるということでした。その起因となる市長の失政の責任は重大ですが、議会にも責任があります。最終的には、それを選んだ市民に、取り返しのつかない多大なツケを回されてきているのです。

私は、小金井市の財政の健全化と、市政の改革を求めるなら、一市民でいるだけでなく市議会議員になるべきの考えに至りました。

(つづく)