走り続けた16年(262)

難問山積の保立市政

昭和56年6月、星野平寿前市長の残した武蔵小金井駅南口駐輪場用地問題で、土地所有者の明け渡し請求に、市は仮処分で対抗し、さらに、保立旻市長就任最初の決断は、議会の議決を得て土地所有者を被告に裁判を起こすことでした。保立市長、大久保慎七助役には辛い判断でしたが、これは、長い間禍根として残りました。

保立市長にとっても最大の課題は財政の健全化でした。それは、全国ワーストを続けている人件費比率の改善です。そのため職員に欠員が生じても不補充を徹底しました。

また、星野市長が昭和54年9月定例会で条例設置した小金井市行財政対策審議会(行対審)に行革に関する諮問していたが、市長が変わったことから、新市長がやりやすいようにと2年の任期を4か月程残して全員が辞任した。毎回、大混乱にも係わらず10回も開かれた行対審、結局答申を出せず解散したのは残念でした。

昭和44年4月中央線荻窪〜三鷹間高架複々線化が完成、それを受けて多摩地域の各市は6月三鷹・立川間立体化複々線促進協議会(複促協)を発足させた。しかし、この高架化は小金井市が最大のメリットと思われたが何故か本市は未加入。その11年後の55年4月になって小金井市も複促協に加入しました。

都は建設省と国鉄の建国協定による都市側の負担金を沿線市にも負担させる方針で、本市の負担は83億円と試算され、保立市長は小金井市の財政状況では無理との考えでした。

市議会も、高架事業は国と都が負担すべきで、地元負担ゼロの主張でした。そのため、高架化事業は進まず足踏み状態が続き、特別快速の停車駅に決まっていた武蔵小金井駅を外して国分寺駅に先行されてしまいました。

積極的推進の土屋正忠武蔵野市長(当時)は沿線各市が了解していることから、保立市長に「負担金なので了解しといて行き詰まったら東京都に考えさせたら」とのアドバイスも保立市長を説得することにはなりませんでした。土屋氏は「保立さんは真面目だからなあ」との感想でした。

小金井市が地元負担を了解したのは大久保市政になってからの平成2年3月定例会に中央線高架化に必要な資金を積み立てるための「鉄道線増立体化整備基金条例」を制定したことで沿線6市の足並みが揃ったのです。

ごみ問題も顕在化しました。市は昭和55年から3年間羽村町(現・羽村市)の埋立処分場に不燃ごみを投入していたが、選別、破砕、切断する中間処理場がないことから地元の批判が出ていた。そのような中、58年9月13日施設周辺の住民代表で構成される廃棄物埋立地周辺環境保全連絡協議会(保全協)から搬入停止を通告された。理由は、小金井市が有害物質の乾電池、鏡、蛍光灯、体温計等を、そのまま埋め立てているというのです。それは、公害問題に取り組む一小金井市議会議員が保全協に、小金井市では有害物質を投棄しているのではないか、との発言からで、市は議会とともに、その事実はないが羽村町に謝罪文を提出するなどし事態収拾を図った。20日羽村町長名で搬入を再開することの許可が届き、一段落となったが市議会には課題が残った。

また、粗大不燃ごみの中間処理施設建設は待ったなしとなった。

(つづく)

走り続けた16年(201)

街づくりへの挑戦 中央線高架⑦

全国に鉄道立体化の要望が多くある中、国の事業採択基準は沿線の街づくりの進捗でした。特に路線距離の長い中央線三鷹~立川間の高架化の条件は、沿線6市の街づくりの進捗にありました。そのため、街づくりの進んでいる国分寺~立川の西区間が東区間に先行して事業採択となる矛盾も生じました。三鷹~国分寺間の事業採択には東小金井駅北口の区画整理の進捗の熟度に懸かっていました。そのため、市政は慌ただしく動きます。

平成6年4月に行われた二度の地権者への説明会は大混乱の末、具体的な説明に入れず打切りとなりました。そのため、7月、市は各地権者に対し管理職者による戸別訪問での説明を行いました。しかし、自分の所有する土地の減歩がどの程度なのか、また、換地による自分の土地の位置がどこになるか、そして、減歩のない場合の清算金の額など、事業が進捗しなければ確定しない中での戸別の説明は厳しいものでした。区画整理区域内はブリキ板に「土地のタダ取り、区画整理絶対反対!」と書かれた看板が、個人の住宅等いたる所に貼りめぐらされてる状況でした。

その様な中、同年7月25日に放映された日本テレビの夕方のニュース・情報番組「ニュースプラス1」を見てあまりに内容が偏っていることに憤りを覚えました。「ニッポン紛争地図」と銘打って混乱した説明会の状況が写し出され〝区画整理事業は悪〟とイメージさせる報道内容には耐えられませんでした。事前の取材で放映が分かっていたことから、関係者はテレビに釘付けになり、その番組のビデオが回し見されることになりました。

私は早速、一市議会議員として独断で、番組を担当したI記者と接触し、小宅地には減歩を緩和する施策があるにも関わらず、一律に減歩するかのような表現は過ちであり、訂正の再放送を求めました。また、電話ではラチが明かないので面会を求めましたが、なかなか応じず、執拗な要求でやっと実現しました。それも、夜10時からテレビ局ででした。話は平行線が続きすぐに日付が変わりました。テレビ局の用意した車を断り、始発電車で帰りました。その後、2~3回常識的な時間帯にテレビ局を訪ね区画整理について話すとともに番組に対する異議の申立ての手続きについても話し、私は法的措置も考えていることを伝えました。

その後、取材が再開され10月13日の「ニュースプラス1」で再度東小金井の区画整理が放映されました。内容は、前回とは異なる内容になっていました。

同年9月の市議会定例会に、市民から出された「JR中央線の連続立体化等計画の推進に関する陳情書」を採択し、「住民の合意と納得のない東小金井駅北口区画整理事業の都市計画決定に反対する陳情書」を不採択としました。

さらに、定例会最終本会議において、「中央線立体化は小金井市民の悲願であり、三多摩365万住民の願いであるとし、公園の整備や緑の確保。障がいのある人や高齢者に優しい街。平均減歩の25・58%を20%に近づけること」等を内容とする「JR中央線の連続立体交差化及び東小金井駅北口区画整理に関する決議」が賛成多数で可決されたことで市議会の推進の意思が確認されました。

(つづく)

走り続けた16年(193)

街づくりの挑戦 中央線高架

中央線は明治22年私鉄の甲武鉄道により敷設されました。当初の計画は甲州街道沿いの路線だったようです。しかし、計画路線区域の理解が得られにくいことから、新宿から立川を直線で結んだ線に変えたとのことです。その線が小金井村の真ん中を南北に二分する位置になりました。

小金井市の街づくりが進まなかったのは財政難と中央線の線路と道路との平面交差に原因がありました。

小金井市にとって中央線の恩恵は計り知れません。それは、都心への利便性などにより大きく発展できた要因でもあります。一方、多摩地域の通勤・通学者等の急増により、過密な列車ダイヤにより「開かずの踏切り」の発生となりました。

昭和44年に中央線荻窪駅から三鷹駅までの高架が完成し、次は三鷹から立川までとの期待が膨らみました。中央線は多摩地域の背骨であり大動脈でもあります。そのため、立川以西の自治体にとっても輸送力増強につながる中央線の高架に期待が高まりました。特に小金井市においては中央線が市域を南北に二分し、朝晩のラッシュ時は踏切りが開かず、特に武蔵小金井駅東側の小金井街道踏切りの遮断機が上がるのは1時間で1分間前後であり、「開かずの踏切り」の呼称は全国にその名を馳せていました。

三鷹までの高架が完成したことから、同年立川以西も含み、多摩全域の20市3町1村の参加により「三鷹—立川間立体化複々線促進協議会」(複促協)が設立されました。しかし、この高架化により最も恩恵を受けると思われる小金井市はこれに参加しませんでした。それは、複促協に加入することにより国鉄のペースで事が運んでしまうことを危惧したようです。しかし、昭和55年に11年遅れての加入となりました。

この複促協は促進を決議はするがなかなか進まず「停滞協」と揶揄されていました。

昭和58年、武蔵野市長に就任した土屋正忠氏が、鈴木俊一都知事や青梅市選出の都議会自民党幹事長の水村一郎氏などの力を借りて、中央線を動かすことになりました。

高架促進の大きな問題は、建設費の「地元負担なし」を全会一致で決議している小金井市議会を翻意させることでした。その根拠は荻窪—三鷹間の高架化には地元負担が無かったことを例に挙げてです。しかし、国や都の考え方は、東京都の区は都市計画税を撤収せず、都が課税主体になることから都が負担することになるが、市は、都市計画税を徴収してることで市が一部負担することになる、という解釈でした。

当時、2千億円近い総事業費の内、小金井市の負担は約90億円といわれていました。

小金井市が地元負担ゼロを主張してる限りこの事業は進まないことになります。都心から立川まで高架になり、小金井市域だけが地上を走るということにはならないのです。

昭和60年、市議会議員になった私は、古くからの友人でもある土屋氏の指導を仰ぐことになり、このままでは何年経っても高架化はできないことから、保立旻市長と地元負担について話し合い、引き継いだ大久保慎七市長が地元負担を決断し、停滞していた三鷹—立川間の高架化が進むことになりました。

(つづく)