走り続けた16年(275)

職務給導入で組合と合意

昭和33年10月1日の市制施行を記念し、それまで職員は地元から選考で採用していたが、翌年から地元に限定せず大学卒も公募で採用することにした。採用された職員の中には学生運動で活動した者もおり、次年度以降はその活動仲間を誘って受験させ入所するようになった。

36年1月、それまで職員組合の執行部は役所の管理職が交代で務めていたが、引き受け手がなく入所数年の若手の平職員が過去の推薦の慣例を破って立候補し就任した。戦い慣れた怖いもの知らずの新執行部に対し、これまで仲間内の御用組合を相手にしてきた管理職では到底太刀打ちできなかった。

発足早々の若い組合は目の前の賃金闘争に勝利し、意気上がり組合員の期待も膨んだ。

2月の団体交渉で「年齢給」を意味する年齢別最低保障に当局から前向きな発言が出たことで組合は勢い付き、違法なストを構えての交渉となった。

当時の会議録等によれば、団体交渉が続く3月4日は日付を跨いだことから鈴木誠一市長は団交を関綾二郎助役(2代目市長)や労務担当者に任せて帰宅した。後を任せられた助役以下は何とか妥結に持ち込みたいと組合側と交渉を重ねた。5割や3割休暇、超過勤務の拒否などの違法な実力行使で行政執行に支障を来していたこともあり、当局は朝8時30分にこの内容なら市長も納得するだろうとの思いから組合と妥結した。しかし、登庁した市長はその内容に不満を示し激怒したとのこと。そのため、この覚え書きに市長は署名・押印しなかったのである。それが「幻の37協定」と言われる所以である。

この「37協定」による年齢別最低保証制度は学歴や職歴、職務・職階に関係なく年齢により給与が決まるもので、組合は大根一本、サンマ一匹、部長が買っても平職員が買っても値段は同じ、との屁理屈が原点であり、勤労意欲に欠ける職員には歓迎の制度だった。

「協定」は市長の署名がなく幻に終わったが助役をはじめ労務担当職員が一旦合意していたことからか3月定例会に「協定」に倣った「職員の給与に関する条例の一部改正」の議案が提案され議決されたのです。これがその後、長い間小金井市財政を苦しめる根源となる「年齢給」の導入だったのです。しかし、総務委員会や予算特別委員会でも特段の議論にはならず、本会議で与党の保立旻議員(5代目市長)が追求したが及ばなかった。

これは、職員の勤務意欲を失わせ職場の活性化を阻むものであり、この改正された条例は、地方公務員法第24条第1項の「職員の給与は、その職務と責任に応ずるものでなければならない」との法に反するものでもあった。「37協定」には10項目であり、その中身は②年齢別最低保障。③在職調整を行う。それは⑤昭和39年度までに完了する。⑧外部への公表については甲乙協議の上決定。さらに、⑩本覚え書きの交渉過程において発生した(法律違反など)諸問題についての責任は追及しない。というものでした。

問題は「37協定」が幻にも係わらず鈴木市長の後の、関、永利、星野、保立、大久保と歴代の市長も給与改定等において「所謂『37協定』による給与の調整」という1項目がついて回っていたのが解せないのである。

この年齢給とともにその後50年前後の革新市政による大量職員の採用が小金井市民を長い間苦しめ続けた。

(つづく)

走り続けた16年(245)

幻の三七(さんなな)協定

昭和36年1月、入所数年の20代前半の若者により再結成された職員組合、以前の給与改定は人事委員会勧告通りの市の提案を受け入れていたのが一変、独自要求するやら勤務時間に食い込む違法なストライキとなる職場大会を打つなどの対抗で結果を出しました。

実績を上げることで闘えば得られるとの思いになることから賃金闘争は一層激しくなりました。自治労による全国的な公務員共闘の賃金闘争に参加し大きな結果を得たことから、昭和37年の第二次賃金闘争はさらに強力で、学歴差別反対、職務給の粉砕を旗印に、時間外拒否、問題の職場大会、徹夜団交などが繰り返されました。

前夜から続いた3月5日午前8時半、混乱する労使交渉の中で一定の合意をみましたが、鈴木誠一市長はこれを認めることはなかったようです。

この賃金交渉の経過について、昭和37年3月定例会の市長報告で職員組合との交渉に当たった関綾二郎助役から報告されました。

その内容は「組合から30数項目の要求書が出され、2月6日から3月4日迄の9日間に10回と他市より多くの団体交渉を持ち、特に大きな問題は一律五千円のベースアップと年齢別最低賃金制の問題でした。他の職場から入所した職員は新規採用と同じ給与でスタートすることから、過去の経験が賃金に生かされていないのは不合理がある。この不合理を是正することに労使が了解点に達した。また、不均衡是正により高額の昇給の場合は具合が悪いので2年か3年に分けて実施する基本線が決まった」という主旨のものでした。

この助役の報告に対し社会党の寺本正雄議員が「組合の要望にもかかわらず団交が開かれなかった」と組合の主張に沿った形の質問に、助役は「たいへん職員には申し訳ないと思っております。できるだけそういうことのないようにして参りたいと思っております」と他市より多くの団交にもかかわらず、この様な質疑・答弁になりました。

与党はこの覚え書問題に関心が薄く、保立旻議員(5代目市長)が一般質問で厳しく追求した程度でした。

鈴木市長の強硬路線に対し、組合との融和を図った関助役の温情ある柔軟な対応は、組合には通じず守勢に回ったのは残念です。

この交渉に当たって職員組合は職場大会を開き、5割休暇とか3割休暇をしたり、超勤拒否の実力行使を行うなど市民生活に大きな影響を与えました。

この不当行為に対しても当局は職員の処分を行う考えはなく、覚え書の「3・7協定」10には「以上各項を決定するに至る交渉過程において発生した諸問題については、甲乙ともその責任を追求しないものとする」と免罪符を与えていました。

また、その欄外には「この覚え書交換の後日の証しとして、甲乙それぞれ記名捺印のうえ、各自1通を保有する。昭和37年3月6日 甲 小金井市長 鈴木誠一 乙 自治労小金井市職員組合執行委員長 M・Y とありますが、市長はこの覚え書の内容に納得せず記名押印しなかったようです。そのため、市に在るべき「覚え書」は存在せず、私の市長16年間の在任中にもこの文書を目にすることなく、幻の「3・7協定」に35年間、小金井市政が振り回されていたということです。

(つづく)

走り続けた16年(244)

三七(さんなな)協定って何?

昭和33年の市制施行を契機に市職員を公募で採用することになり、その公募で入所した20代前半の若い職員により、昭和36年1月御用組合が闘う職員組合に変身して再結成。同時に自治労に加入し全国的な公務員共闘の第一次賃金闘争に参加し、自らの独自要求を押し通す等の成果を上げたことから組合活動はいやがうえにも盛り上がりました。

組合との団体交渉には同年の昭和36年12月23日、助役に就いたばかりの関綾二郎氏(二代目市長)が当りました。初代の鈴木誠一氏と二人の市長には私も長い間、ご指導をいただきました。この大先輩を私が評するのも如何かとは思いますが、鈴木市長の「剛」に対し、関助役は「柔」という感じでした。

自治労の第二次賃金闘争に取り組むため、小金井職員組合が昭和37年1月の臨時大会で決定した方針は、その後長く小金井市財政に大きな影響を及ぼすことになりました。

組合の発想は「賃金は生活給であり、課長だろうが現場の平職員だろうがサンマ一匹、大根一本の値段に変わりはない」との主張で、誰でもが一定の年齢になったら差別なく最低の保障を受けるための「年齢別最低賃金制度の導入」を打ち出してきたのです。

若く経験の少ない執行委員は問題があれば職場懇談会(職懇)等を開いて協議することから要求は次第にエスカレートしました。

2月に入り組合は勤務時間に食い込む違法な職場大会も開きました。3月、市長が出席した団体交渉の中、組合側の要求である「年齢別最低保障」を容認する発言が出されました。その後、当局はこれによる財政負担が高額になることから到底受け入れられないとの認識に至りました。再度の団交で、当局側は文書による確認に至っていないことからこの問題から逃げたが、組合は食いついて放さない状況が続きました。日付が変わってから市長は助役に一任して帰宅しました。明け方まで続いた団交で当局が組合の要求を一部押し返した形の妥協案を示し、組合の意向を打診し組合もこの内容で妥結しました。

その後、登庁した市長はこの妥結内容に不満を示し、容認しなかったとのことです。

この覚え書の標題には「小金井市長と自治労小金井市職員組合執行委員長との協議事項にかかる結果について(覚え書の交換)」とあり、文頭は「東京都小金井市長鈴木誠一を甲とし、自治労小金井市職員組合執行委員長M・Yを乙として、甲乙協議の結果次の通り覚え書を交換する」とあります。

その内容は、10項目の合意事項が列記されており、その4に「年齢別最低保証賃金制度の実施は不均衡の是正の措置を含め、全職種を通じて別表2の初任給基準表を用いるものとし、同表により在職者調査を行う」とされており、5で「経験年数換算分の調整の実施は昭和39年度までに完了するものとする」とあります。そして、合意日は昭和37年3月6日と記されており、この覚え書により小金井市の給与体系は年齢給となり、平成9年の職務給導入まで約35年間、人件費問題が小金井市財政に重くのしかかることになったのです。

この覚え書はいわゆる「37協定」と呼ばれますが、不思議なことに、この文書には市長印がないのです。

(つづく)