走り続けた16年(263)

ごみ問題 苦難の保立市政

昭和56年6月、市長に就いた保立旻氏が当面する課題のひとつはごみ処理問題でした。

不燃ごみを細かく破砕する中間処理施設を持たない小金井市は、集積場に集めた不燃ごみから缶やビン、乾電池等の有害物質は手作業で取り除き、ロードローラーで潰した物をショベルカーでダンプカーに積まれ羽村町(羽村市)の埋立場に運ぶ方法で「小金井市は空気を運んでくる」と批判されていた。この処分場は3年の計画で多摩9市で運営されており、59年4月以降は他の場所を確保する必要に迫られていた。

58年9月12日、羽村町側から突然搬入停止が通告された。理由は「小金井市のごみの中に有害物質が含まれているのではないか」との一小金井市議会議員の問題提起からです。市長は、開会中の市議会を休会にした議長と搬入再開に奔走。毎日出るごみの処分ができないのは、市にとっては最悪です。有害物の混入はありえないが、市長と議会はこの疑義に対し羽村町に謝罪文を提出するなどし事態収拾を図った。羽村町の調査結果からも、有害物の混入の事実が確認できなかったことで、20日井上篤太郎羽村町長名で搬入再開許可の通知が届きました。搬入停止は約10日間で済みました。

58年4月、本市を含む多摩25市2町による新たな焼却灰など不燃ごみの埋立地となる日の出町谷戸沢最終処分場が完成し埋立てが開始された。しかし、処分場延命のため不燃ごみの投入には地元との公害防止協定に基づき金属等再資源化の可能なごみは除去し、かつ、15㎝以下に破砕し圧縮しての搬入が義務付けられました。そのため本市は基準に合うごみは谷戸沢処分場に搬入するが、それ以外は羽村町の埋立場への搬入を継続しました。

当時、選別、破砕のための中間処理場を持たないのは小金井市だけであり、早急な建設に迫られていました。

市は不燃ごみ積替場のある貫井北町1丁目を候補地に周辺用地を取得するが地元の理解が得られず足踏み状態が続いていた。その理由は騒音等公害に対する不安と集会場等地元還元施設の建設の約束を反故にしていたこと、事前に地元に説明が無かったことで地元が硬化していたのです。そのため2年連続して国の建設費の補助金を見送ってました。

羽村町処分場の使用期間が終えたことから全量日の出町谷戸沢処分場に搬入するが、小金井市の埋め立てごみは公害防止協定を守れないが中間処理場ができるまで特別に搬入させて貰うことで危機を脱したのです。

当局は危機的な状況を地元団体に理解してもらうため熱心な交渉の結果、地元との合意に到りました。後は時間との闘いです。

一方、調布市、府中市と本市の可燃ごみを焼却する二枚橋焼却場の老朽化から、59年2月建て替え計画を策定し、順調に進むかと思われたが、任期満了に伴う市議選直前の最後の議会となる60年2月13日「老朽化した二枚橋焼却施設を建て替えるについては、他の場所に『第2工場』を建設することを付帯条件とする」との決議を全会一致で議決したのです。この決議が、その後の小金井市のごみ行政に大きな影響を与えることになりました。

保立市長の1期目の四年間は危機的状況に直面するごみ処理に翻弄されていました。

(つづく)

走り続けた16年(262)

難問山積の保立市政

昭和56年6月、星野平寿前市長の残した武蔵小金井駅南口駐輪場用地問題で、土地所有者の明け渡し請求に、市は仮処分で対抗し、さらに、保立旻市長就任最初の決断は、議会の議決を得て土地所有者を被告に裁判を起こすことでした。保立市長、大久保慎七助役には辛い判断でしたが、これは、長い間禍根として残りました。

保立市長にとっても最大の課題は財政の健全化でした。それは、全国ワーストを続けている人件費比率の改善です。そのため職員に欠員が生じても不補充を徹底しました。

また、星野市長が昭和54年9月定例会で条例設置した小金井市行財政対策審議会(行対審)に行革に関する諮問していたが、市長が変わったことから、新市長がやりやすいようにと2年の任期を4か月程残して全員が辞任した。毎回、大混乱にも係わらず10回も開かれた行対審、結局答申を出せず解散したのは残念でした。

昭和44年4月中央線荻窪〜三鷹間高架複々線化が完成、それを受けて多摩地域の各市は6月三鷹・立川間立体化複々線促進協議会(複促協)を発足させた。しかし、この高架化は小金井市が最大のメリットと思われたが何故か本市は未加入。その11年後の55年4月になって小金井市も複促協に加入しました。

都は建設省と国鉄の建国協定による都市側の負担金を沿線市にも負担させる方針で、本市の負担は83億円と試算され、保立市長は小金井市の財政状況では無理との考えでした。

市議会も、高架事業は国と都が負担すべきで、地元負担ゼロの主張でした。そのため、高架化事業は進まず足踏み状態が続き、特別快速の停車駅に決まっていた武蔵小金井駅を外して国分寺駅に先行されてしまいました。

積極的推進の土屋正忠武蔵野市長(当時)は沿線各市が了解していることから、保立市長に「負担金なので了解しといて行き詰まったら東京都に考えさせたら」とのアドバイスも保立市長を説得することにはなりませんでした。土屋氏は「保立さんは真面目だからなあ」との感想でした。

小金井市が地元負担を了解したのは大久保市政になってからの平成2年3月定例会に中央線高架化に必要な資金を積み立てるための「鉄道線増立体化整備基金条例」を制定したことで沿線6市の足並みが揃ったのです。

ごみ問題も顕在化しました。市は昭和55年から3年間羽村町(現・羽村市)の埋立処分場に不燃ごみを投入していたが、選別、破砕、切断する中間処理場がないことから地元の批判が出ていた。そのような中、58年9月13日施設周辺の住民代表で構成される廃棄物埋立地周辺環境保全連絡協議会(保全協)から搬入停止を通告された。理由は、小金井市が有害物質の乾電池、鏡、蛍光灯、体温計等を、そのまま埋め立てているというのです。それは、公害問題に取り組む一小金井市議会議員が保全協に、小金井市では有害物質を投棄しているのではないか、との発言からで、市は議会とともに、その事実はないが羽村町に謝罪文を提出するなどし事態収拾を図った。20日羽村町長名で搬入を再開することの許可が届き、一段落となったが市議会には課題が残った。

また、粗大不燃ごみの中間処理施設建設は待ったなしとなった。

(つづく)

走り続けた16年(261)

市長が市民を訴える

大混乱の中で星野平寿市長が任期半ばで辞職しました。財政再建が課題の小金井市で高らかに行財政改革を訴えて当選したが、不適正な北海道出張が原因で辞職となった。

それに伴う市長選挙は昭和56年5月31日に執行され無所属の3氏が立候補し、自民、公明、民社、新自由クが推す保立旻氏が1万5千218票、社民党推薦の田中二三男氏が9千700票、共産党推薦の林茂夫氏が8千319票で保立氏が当選した。不祥事の後の市長選挙だが革新の分裂と財政再建を望む市民の声が保立氏を当選に導いた。

保立氏は大正5年8月、高尾山薬王院の住職を父として生まれ、1m80㎝を超える長身で法政大学では自動車部で車を乗り回し、カメラを趣味とする恵まれた環境の方だった。

昭和26年4月の小金井町議選に34歳で立候補し1票差で落選したが、次の30年の町議選ではトップ当選を果し、町議1期、市議3期の間に議長を5期務め、都・市議会議長会会長にも就いた。市議を引退した後は教育委員等を務めていた。

6月2日保立市長の初登庁を待っていたのは、市長が市民を訴えることの決断でした。これは、武蔵小金井駅南口の2千平米の土地を駐輪場として借りる予定で整地するなど準備していたが、土地所有者のH氏は親戚にあたる星野平寿市長に貸したもので星野市長が辞職したので現状に回復して20日以内に返すように、との申し入れを受けていた。駅周辺には放置自転車が散乱している状況で、正式な土地賃貸借の契約はなかったが、この申し出では受け入れられなかったのです。

市はやむを得ず権利保全のため仮処分申請をし受理されたが、H氏から仮処分決定に異議の申し立てがあり、裁判所の指導もあり本裁判に持ち込まざるを得なくなっていたもので、市が市民から借りた駐輪場用地を返さないことを訴える裁判です。就任早々の保立市長には厳しい判断でした。市が提訴するには議会の議決が必要であり、昭和56年6月の市議会定例会に「土地賃借権確認請求に関する民事訴訟の提起について」が提案され、長時間にわたる熟議の結果単独会派の3議員を除く全議員の賛成で可決された。もし、私が市長でも同じ行動をとったと思います。

この裁判が4年間続く間に別の場所が確保されました。59年11月裁判所の斡旋で市が用地を返し和解金を支払うことで決着した。

しかし、その後も地権者H氏と市が和解することは一切無く没交渉となりました。

60年4月私が市議会議員になって最初に開かれた与党会議で保立市長からこの和解金の支払いが済んだとの報告がありました。

14年後の平成11年4月市長になった私はH氏との不信感を解くことに腐心しました。それは、中央線の高架化や南口の再開発はH氏の協力がなければ進まないからです。就任数か月後、近隣市にある大学病院の特別室で筆談での面会が許され、私は街づくりの協力をお願いしたが、中央線の高架化は進めるべきとの考えでしたが、再開発には返答がなく終わりました。

しかし、その後、H氏の親しい方から再開発を進めることには反対しないとの伝言をいただきました。その数か月後の11月、H氏は逝去され私の面会は1度だけになりました。

(つづく)

走り続けた16年(260)

不信任で議会解散そして辞職

昭和55年12月8日に開会した定例会は12日(金)佐野浩議員の一般質問「市民の血税の使途はこれでよいのか!」で、10月8日〜9日北海道釧路市で開かれた「全国都市問題会議」での星野平寿市長の公務出張の質疑で議会は大混乱に陥った。

これは、11月の決算委員会に出された「都市問題会議」の資料に基づき一部議員は入念な調査をしていた。

佐野議員は「いろいろ噂が飛び交っているが事実でなければ市長も迷惑であろうから確認します」と切り出し星野市長の会議の出欠席や、所在不明時の行動等を質した。質疑は答弁調査の休憩もあり延々と続き、15日(月)も日程変更し佐野議員の一般質問が続いた。さらに休会予定の16日も続いたが、本会議の開議宣告だけで会議は開けず空転のまま協議が行われ、午後3時すぎ星野市長が鹿野勇議長に「退職申出書」を提出した。これを受け17日を定例会最終日に繰上げ、各委員会を開催し補正予算等を即決した。最後に星野市長の辞職の挨拶があり午後5時前に大混乱の議会が終了した。

それが3日後の19日夕方、星野市長が突然議会事務局に「退職申出書の撤回届」を提出。自らの意思で辞職する場合、行政の混乱を避けるため、辞職は20日後になります。そのため撤回が認められ平常の形に戻った。

この一連の星野市長の動きはマスコミの好餌となり、市役所はテレビカメラや記者による取材合戦となり、年末・年始を通し連日報道番組や新聞で全国に混乱が報じられた。

同時期の昭和56年1月中旬「川上紀一千葉県知事が副知事時代の昭和49年春、知事選の選挙資金として都内の不動産業者から現金5千万円を受領した。その際『貴下の事業発展に全面的に協力するとともに、利権等についても相談に応じます』との署名入りの念書を入れた」と新聞が報じた。新聞やテレビの報道番組等マスコミは連日知事の念書問題と市長の北海道出張問題がセットで報道され、千葉県銚子市出身の私には辛い時期でした。

川上知事は「念書」を認め2月27日県議会で辞任が認められた。

2月4日、混乱する市政の中、議員の招集請求による異例の臨時会が開かれた。それは星野市長の不信任を決議するのが目的で、市長から一連の経過の釈明があり、これに全議員が質問する形になった。二転三転する答弁に複数の保守系与党議員からも「真実を話すように」との発言が出るのでした。質疑は日付を超えて続き、ついに市長は体調不良でダウン。回復には1週間との診断で17日に再開したが、市長は欠席のまま不信任案が上程され説明、質疑、討論後の採決で賛成24、反対2で可決された。

法により不信任が可決された場合、市長が辞任するか議会を解散するかを10日以内に決することになります。星野市長は2月26日に自らの辞任ではなく議会の解散を選択した。

それに伴う市議選が4月6日に行われ星野支持派は全滅となり、13日、新議員の初顔合わせが行われ、その後の全員協議会で「市長の即時退陣要求」を全議員の賛成で決めた。

4月19日星野市長は議会事務局長に「退職申出書」を提出し5月8日で市長を終えた。

5月31日に行われた市長選挙は3人が立候補し自民党の保立旻氏が当選を果した。

(つづく)

走り続けた16年(259)

市長辞職、行対審査 答申なし

昭和51年以来人件費比率全国ワースト1位を続け、非常に厳しい財政状況にある小金井市政。その改善を求める市民の声を受けて昭和54年5月星野平寿市長が誕生しました。

政策の目玉は市民による「行財政対策審議会(行対審)」の設置でした。当時、市民により行政全体にわたってチェックすることは全国でも例がないとして注目を集めました。

市職組は人件費問題に切り込む答申の阻止と、革新諸団体はこれが全国への波及を阻止するための反対運動は過激でした。

星野市長は行対審の答申を尊重し各種事業を見直し改善を図っていくとし、設置反対の側は、議会や労使交渉の中で市長が言いにくいことを審議会に言わせる、つまり市長の隠れミノだという批判を繰り返していました。

6月議会に提案した行対審設置条例は議論百出の末、9月議会で可決されました。

12月22日、第1回の行対審が大混乱の中で開かれました。その後も混乱の続く中で審議会が続けられました。問題は審議会の傍聴のあり方でした。

懲戒免職から復職した組合委員長を先頭に傍聴席に入りきれない程の職員等が押しかけ委員を威嚇し、野次等で議事を妨害することの繰り返しでした。

また、市職組は反対運動として、行対審委員宅に抗議のハガキを送付しました。私も委員の自宅に送られた手紙の束を見せてもらいましたが、家族には委員を継続していくことに不安を感じさせる内容のものでした。

55年5月28日に開かれた4回目の審議会は公会堂の会議室が狭いことから傍聴が認められなかったことで会場は大混乱、ドアをドンドン叩くやらシュプレヒコールを上げるなど話が聞き取れず結局流会になりました。この様な状況においても当局は組合の報復を恐れただ見ているだけで注意することすらできない状況でした。

11月13日の審議会では、見城一委員から答申のたたき台とも言える「事務事業に関する私見」が提示されました。それらを受けて11月20日からの審議会で「答申づくり入る」ことを決定しました。この「見城私案」は市の目指すべき行政改革を具体的に提示した議論に値するものでした。しかし、結局行対審が答申を出すことはできませんでした。

審議会委員は、会議を混乱させる職員等を指導できないことや、会場の休館日に日程を入れる不備等、また見城私案が公になる前に反対派に渡ってしまうこと等から当局に対し強い不満と不信感を抱いていたようです。

12月8日に開会した定例会、12日の佐野浩議員の一般質問で、10月8、9日に北海道釧路市で開かれた全国市長会が主催する全国都市問題会議に公務出張の星野市長が会議に参加せず、市の広報課も4日間の行動が確認できず、女性の同伴あったことが明らかになったことで議論は紛糾。

16日、星野市長は鹿野勇議長に一身上の都合を理由に辞表を提出しました。そのため議会は会期を繰り上げて12月17日、本会議で星野市長辞任の挨拶をもって閉会しました。

しかし、その数日後の19日星野市長から異例の「辞職願いの撤回」が出され、法的問題が無いことからそれが受理され元に戻りました。これにより小金井誕生以来の大混乱の始まりになりました。

(つづく)