走り続けた16年(249)

職員組合M委員長を免職に③

昭和36年に若手職員により再結成された職員組合は給与改定闘争で画期的な成果を収め、次は年齢別最低賃金を保証する「三七協定」の締結で一層勢いづきました。これは、「部長であろうと平職員であろうと大根一本の値段に変わりない」という理屈で、給与は学歴や職歴、職務・職階に関係なく年齢によって定めるというもので、組合の要求が次々に実現していました。

昭和38年春の賃金闘争も激しく、超過勤務や宿日直の拒否などの実力行使を武器に、連日の団体交渉に加え休暇闘争にも発展し、当局は追い詰められる状況でした。

市長選と市議選を間近に昭和38年4月10日、職員組合の執行委員長である「小金井市事務吏員Mを地方公務員法第二十九条第一項の規定により免職する」という辞令が本人に交付されました。

地公法第二十九条第一項は、法律、条例等に違反したり、職務上の義務に反したり職務を怠った場合や全体の奉仕者に相応しくない非行があった場合は懲戒処分として戒告、減給、停職又は免職の処分することができる、との規定です。

懲戒免職したにもかかわらず当局は組合が怖いのか、市長選で革新系候補が勝利した場合を考えてか、M氏の机を処分できず、M氏はその職場の机を使って数か月、読書にふけっていたようです。

この市長選は革新系の岩内義明候補が勝利すれば「首が戻る」から頑張ろうという組合側の選挙だったようですが、鈴木誠一市長が現職の強みを発揮し再選されました。

また、同時に行われた市議選後の初議会は5月18日の臨時市議会でした。初当選の社会党の岡田清則議員から「市職員組合委員長の免職について」の緊急質問が行われました。岡田議員は、当局と組合が賃上げ交渉中の処分であり、いかなる根拠に基づいて組合委員長を免職にしたか、処分するだけの客観的な事実を示すよう答弁を求めました。

しかし、市長は、組合活動や賃上げ交渉とは別問題であり、市民に対するサービス、職場における綱紀の問題、あくまで業務命令違反の一点ばりで、懲戒免職の具体的な事由は示さなかった。さらに処分撤回を求める発言には、しかるべき機関(東京都人事委員会)に提訴し、判断はそこの審査結果による、と論争を回避する答弁に終始しました。

続いて、同じく初当選の共産党朝倉篤郎議員から「市長の行政処置について(市職員組合委員長の免職について)」の表題で緊急質問が行われました。

朝倉議員はM職員の懲戒免職による業務への影響を質しました。

M職員は固定資産税課償却資産担当で免職により事務の引き継ぎが行われず業務に支障が出たのではないか、に対して、固定資産評価委員であり総務部長は係長が事務を引き継いで支障のないように対応したとの答弁に、担当課長は「償却資産の仕事はM君一人でやっていたので若干令書の発送に支障を来したことは事実です」との答弁になりました。市長からは「今後、異論のないように十分措置したいと考えております」との答弁で緊急質問は終了しました。

請求期限切れの直前の6月に入り、M氏の不利益処分取り消しの審査請求が東京都人事委員会に提出され、審査が開始されました。

(つづく)

走り続けた16年(247)

職員組合M委員長を免職に

昭和36年1月に再結成された職員組合は同年の自治労・第一次賃金闘争で成果を上げ、翌年の第二次賃金闘争では「年齢別最低賃金」を約束させる「三七協定」を昭和37年3月に合意させたことで、4月にはほとんどの職員が大幅な賃上げを果すことになりました。

この「年齢給」は平成9年度に「職務給」に改善されるまで約35年間にわたり小金井市民が人件費問題で苦しむ原因になりました。職員組合は次の目標を夏の一時金(ボーナス)闘争に定めました。大幅な昇給を決めた後だけに当局は条例通りの提案をしたが、勢い付く組合は前年の支給率を既得権に大幅増の要求になりました。

6月に入り組合は超過勤務拒否や宿日直拒否の実力行使に入りました。当局は市民に迷惑をかけない円滑な行政執行を何より望むものです。そのため、実力行使による行政の停滞は市長にとっては最大の悩みになります。職員側にしても、超勤を拒否することは仕事が溜まることで辛いのですが、組合の方針に逆らうことにはなりませんでした。

その様な状況の中、7月1日に執行される参議院議員選挙を目前に選挙管理委員会事務局は連日の残業で事務作業をしてましたが、選管の職員も組合の方針に背くことにはならず事務作業は遅れ、選挙執行が危険視されるようになりました。選管の委員は辞職も念頭に超勤拒否の解除のため妥結することを強く市長と組合に求めました、小金井市において参院選挙が適切に執行されなければ全国的な大問題になります。結局は市長が条例通りの提案を見直すことを約束することにより、組合は超勤拒否の闘争から選管事務局を外すことにはなりました。

6月15日の一時金支給日が過ぎても決着できず交渉が継続されます。市長の公務出張の日程の変更や出先まで乗り込んで抗議するなどが続き、結局、当初の提案を大きく上回る結果で妥結することになりました。夜を徹しての団交、そして、集団交渉による成果で、さらに組合の結束は強化されました。

当時を知る人は市役所の前庭を赤旗を掲げて職員集会が開かれていたことを思い出されることでしょう。

昭和38年4月下旬には統一地方選挙で小金井市は市長、市議選が行われます。

4月9日午後、市長から職員組合M執行委員長に免職に伴う弁明書が渡されました。それに記載されていた弁明の機会がその場であることにM執行委員長が気付かなかったことから弁明の機会を逃すことになりました。

翌日、M執行委員長に届けられた書類には「辞令 小金井市事務吏員 M・Y 地方公務員法第二十九条第一項の規定により免職する。 昭和三十八年四月十日 小金井市長 鈴木誠一」というものでした。

また、処分説明書の処分理由では「昭和38年1月4日から同年3月30日までの間に、あなたの行った職務命令違反等の行為は、地方公務員法第三二条等に違反するものである」とあります。法三二条には「職員は、その職務を遂行するに当たって法令、条例、地方自治体の機関で定める規定に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」と定められており、職員は上司の命令に従う義務があるとされているのです。

(つづく)

走り続けた16年(243)

強力な市・職員組合

小金井市は非常に潜在能力の高い町です。都心からJR中央線で30分程度に位置し、水と緑に恵まれた自然環境にあり、市民の意識は高く、その担税力は全国でもトップクラスにありながら、街づくりは遅れ危機的財政状況が数十年も続き、文化施設やスポーツ施設など公共施設の不足は市民の悩みでもあり、不便な生活を強いられました。なぜ武蔵野市や三鷹市、府中市など近隣市と比較して、市民サービスとしての還元が少なかったのか。

それは、市制施行当時から尖鋭化した職員組合に対し当局が適切な対応ができていなかったことが長く尾を引いたことと、昭和46年から2期8年間の革新市政でさらに組合が強力になったことに起因します。それは、市民にとって取り返しのつかない大きな損失となりました。

昭和33年、小金井市が市制施行を契機に職員採用を地元中心から広く公募で行うことにしました。それまで必要に応じて地元の人を選考等で採用していたのが、ここで大学で学生運動などを経験した新卒の学生が入所してきました。

公募で採用された20歳代の若者を中心に給与等労働条件の改善を求める声が次第に大きくなり、昭和36年1月それまで互助会的な活動を主とし、話し合いにより交代で管理職が執行委員長等を務めてきたポツダム組合が、慣例を破って入所早々の24〜5歳の若手職員が立候補し、若手平職員による執行部が誕生しました。闘う組合が無投票で再建・結成されました。これを、組合は無血クーデターと表していました。

怖いもの知らずの若手執行委員は早速賃金闘争に取組み、その要求は強引で当局は慣れない守りに必要な理論武装が不十分なことから、労使交渉は組合のペースで進みました。

同時に懸案の、全国の地方公務員による組合組織である自治労(全日本自治団体労働組合)に加入し、全国的な公務員共闘の第一次賃金闘争に参加することにもなりました。

当時の職員の待遇は必ずしも恵まれていたという状況にはありませんでした。特に中途採用の現業職員の待遇は厳しいものでした。そこに、御用組合から脱皮した職員組合は初めての賃金交渉に取り組んだのです。

交渉に当たる執行部は臨時大会での決定を実現させるため、当局に要望を飲ませることに懸命でした。

昭和36年2月の組合の臨時大会では人事院の勧告に沿う市の給与改定案を拒否。独自の要望を提案し、組合の要望が生かされる結果になりました。また、懸案だった時間外手当支給の頭打ちの解消や、一時金(賞与)の支給を勤務評定によることを止めさせるなどに成功し、組合活動の意気はいやがうえにも盛り上がりました。

当時、助役を務めていた鈴木祐三郎氏の体調不良により、鈴木誠一市長は同級生の東京都職員だった関綾二郎氏(二代目市長)を昭和36年12月に助役に起用し、職員組合との交渉に当りました。鈴木助役は昭和37年3月末に辞職しました。

昭和37年1月、臨時大会は第二次賃金闘争に取り組む方針決定のために開かれました。

組合の発想は賃金は生活給であり、誰でも一定の年齢になったら差別なく最低の保障を受けるための「年齢別最低賃金制度の導入」を打ち出したのです。

(つづく)

走り続けた16年(167)

大久保市政【施設管理⑧】

市立小中学校14校など、市の施設を適正に管理する施設管理係の分散する事務室を、1か所に集中すべきであるとの議会意思が、昭和62年9月議会で共産党を除く全議員の賛成で議決されました。

これは、長く職員組合の委員長に君臨した朝熊(仮名)氏が、組合活動以外に果たすべき仕事もなく、時間を過ごすだけの施設管理室を改革することが目的だったのです。

朝熊氏は小金井市が昭和33年市制施行を機に、一般公募による職員採用試験に大勢が受験し、その中の一人として入所。昭和36年に組合を再建し自ら手を挙げて委員長に就任。それまで、管理職者で役員たらい回しの御用組合を、戦う組合に一変させたのです。

昭和37年には、市財政を窮地に陥れた年齢別最低賃金制度(年齢給)37協定を導入させることに成功。市財政に責任を持つべき当局は、朝熊体制に全く為す術もなく組合の術中にはまり、議会もこれを議決したのです。

昭和38年、朝熊委員長は職務命令違反で懲戒免職になるが、組合員の支えで役員としての活動は継続しており5年後の昭和43年に都の斡旋もあり復職することになりました。

これにより、カリスマ的支配の朝熊体制の団結力は一層強固になり、組合は更に強化の道を進み市民不在の中、職員組合とすれば大きな成果を上げ、多くの職員がその恩恵を受けたことで、信奉者が増えていきました。

このカリスマ的支配は次第に強権的、独裁的な運営となり、組合内部に不満や反発が出始めました。それが、昭和58年の警備員削減問題とそれに関連する不当配転問題でした。

警備員問題で、組合内部は修復不可能なまでの意見対立となりました。当局との合意に基づき新制度により過員となった警備員が職種換えとなりました。その内の一人であるM職員が不当配転であると組合に対応を求めたが、執行部はこれを受け入れずM職員は東京地裁に提訴しました。この裁判は市当局を訴える形になってはいるが、実際は独裁的な「朝熊天皇」の方に向いていたのです。

この「丸井不当配転裁判」で多くの管理職が証人として呼ばれ、その管理職の証言から人事を所管する部課長は全く関与せず、部外の管理部長に「朝熊天皇」の最側近であるN職員により異動案が示されたことが明らかにされました。また、管理部長は警備員の顔と名前は分からず、結局「朝熊天皇」の意を受けたN職員による人事異動案だったと思わせる証言でした。

昭和63年12月22日、この施設管理係の事務室を1か所に集中する市長報告が行われた本会議で、傍聴者である「朝熊天皇」信奉者である5〜6名の職員が手を頭の後ろで組み、踏ん反り返って、我が物顔に野次を飛ばして議事を妨害しました。

議会は大久保慎七市長に、厳正なる対処を求める決議を可決しましたが、何らの対応がないことから、年号も変わった平成元年2月定例会、職員給与アップの条例改正案が提案されましたが議会はこれを否決しました。

怒る議会に対し組合は、傍聴職員の態度は遺憾であるとの詫びが入り、市議選直前の3月に市議会臨時会を開き再提案の職員給与アップを可決しました。

(つづく)

走り続けた16年(127)

市議会議員として⑧

昭和60年3月31日市議選に続いて、5月26日の市長選で二期目の当選を果たした保立旻市長を待っていたのは想像を越す職員組合の手荒い歓迎でした。

3月31日に施行された定年制により37人の職員が退職し、その欠員補充を求める職員組合と不補充を主張する保立市長の間で激しく厳しい労使交渉が行われました。その結果、5人の現業職の採用は市長辞職を覚悟しての決断でしたが、与党議員の一部には反発があり、結果、10月に大久保慎七助役が責任を取る形で辞職しました。

議員になって数か月の私にはこの経過を追っていくのが精一杯であり、全体を取りまとめることには到底なりませんでした。

保立市長が苦しんだのは、調布、府中、小金井の3市の可燃ごみを処理していた二枚橋焼却場の建替え問題でした。それを検討し、進めてきたのを、昭和60年3月末の市議選の直前の2月13日、市議会定例会で「二枚橋焼却施設近代化計画に関する決議」が全会一致で議決されたのです。その内容は『今日まで二枚橋衛生組合で、現敷地内において焼却場の施設近代化計画が検討されておりますが、小金井市民に二枚橋焼却場から排出される公害等により長い間被害を被ってきたところであります。

したがって、老朽化した二枚橋焼却施設を建替えるについては、小金井市民の現状を十分にしんしゃくし、公害のない、住民に迷惑をかけない施設とし、かつ、他に第2工場を建設することが付帯条件であります。ついては、第2工場の計画検討を近代化計画と同時にすべきであることを小金井市議会として意見、決議します。』というもので、私が市議会議員になる2か月前に市議会で議決されていたのです。

これは、老朽化した二枚橋焼却場の建替えを目的に、昭和58年7月二枚橋衛生組合議会に3市6人の議員による施設近代化特別委員会を発足させ、組合事務局の研究報告を参考に、焼却施設の現状把握と現施設の問題点についての協議や研修視察を実施し、意見の交換を行っていた矢先のことだったのです。

小金井市民は議会が全会一致であることなどから、特段、問題のある決議とは思えず、市議選の争点にもなりませんでした。

しかし、調布、府中の両市にとっては到底受け入れられるものではなく、不信感を募らせることになり、その後の小金井市のごみ行政に大きな影響を及ぼすことになりました。

それは、3市にまたがる現施設の建替え計画の最中に、新たな第2工場の建設計画を同時に進めるべきであるということに両市は到底納得できるものではなかったのです。また、この決議が小金井市議会議員の誰一人反対もなく可決されたことも重大でした。

人口増によるごみ量の増加と、老朽化による焼却量の減少のギャップで、施設を早急に建替えるべき時に大きな難題を小金井市から突き付けられることになったのです。

保立市長が全会一致で議決した小金井市議会の第2工場論を主張すれば、調布、府中両市と対立関係になり、その狭間で苦しい対応が求められました。

(つづく)