走り続けた16年(167)

大久保市政【施設管理⑧】

市立小中学校14校など、市の施設を適正に管理する施設管理係の分散する事務室を、1か所に集中すべきであるとの議会意思が、昭和62年9月議会で共産党を除く全議員の賛成で議決されました。

これは、長く職員組合の委員長に君臨した朝熊(仮名)氏が、組合活動以外に果たすべき仕事もなく、時間を過ごすだけの施設管理室を改革することが目的だったのです。

朝熊氏は小金井市が昭和33年市制施行を機に、一般公募による職員採用試験に大勢が受験し、その中の一人として入所。昭和36年に組合を再建し自ら手を挙げて委員長に就任。それまで、管理職者で役員たらい回しの御用組合を、戦う組合に一変させたのです。

昭和37年には、市財政を窮地に陥れた年齢別最低賃金制度(年齢給)37協定を導入させることに成功。市財政に責任を持つべき当局は、朝熊体制に全く為す術もなく組合の術中にはまり、議会もこれを議決したのです。

昭和38年、朝熊委員長は職務命令違反で懲戒免職になるが、組合員の支えで役員としての活動は継続しており5年後の昭和43年に都の斡旋もあり復職することになりました。

これにより、カリスマ的支配の朝熊体制の団結力は一層強固になり、組合は更に強化の道を進み市民不在の中、職員組合とすれば大きな成果を上げ、多くの職員がその恩恵を受けたことで、信奉者が増えていきました。

このカリスマ的支配は次第に強権的、独裁的な運営となり、組合内部に不満や反発が出始めました。それが、昭和58年の警備員削減問題とそれに関連する不当配転問題でした。

警備員問題で、組合内部は修復不可能なまでの意見対立となりました。当局との合意に基づき新制度により過員となった警備員が職種換えとなりました。その内の一人であるM職員が不当配転であると組合に対応を求めたが、執行部はこれを受け入れずM職員は東京地裁に提訴しました。この裁判は市当局を訴える形になってはいるが、実際は独裁的な「朝熊天皇」の方に向いていたのです。

この「丸井不当配転裁判」で多くの管理職が証人として呼ばれ、その管理職の証言から人事を所管する部課長は全く関与せず、部外の管理部長に「朝熊天皇」の最側近であるN職員により異動案が示されたことが明らかにされました。また、管理部長は警備員の顔と名前は分からず、結局「朝熊天皇」の意を受けたN職員による人事異動案だったと思わせる証言でした。

昭和63年12月22日、この施設管理係の事務室を1か所に集中する市長報告が行われた本会議で、傍聴者である「朝熊天皇」信奉者である5〜6名の職員が手を頭の後ろで組み、踏ん反り返って、我が物顔に野次を飛ばして議事を妨害しました。

議会は大久保慎七市長に、厳正なる対処を求める決議を可決しましたが、何らの対応がないことから、年号も変わった平成元年2月定例会、職員給与アップの条例改正案が提案されましたが議会はこれを否決しました。

怒る議会に対し組合は、傍聴職員の態度は遺憾であるとの詫びが入り、市議選直前の3月に市議会臨時会を開き再提案の職員給与アップを可決しました。

(つづく)

走り続けた16年(127)

市議会議員として⑧

昭和60年3月31日市議選に続いて、5月26日の市長選で二期目の当選を果たした保立旻市長を待っていたのは想像を越す職員組合の手荒い歓迎でした。

3月31日に施行された定年制により37人の職員が退職し、その欠員補充を求める職員組合と不補充を主張する保立市長の間で激しく厳しい労使交渉が行われました。その結果、5人の現業職の採用は市長辞職を覚悟しての決断でしたが、与党議員の一部には反発があり、結果、10月に大久保慎七助役が責任を取る形で辞職しました。

議員になって数か月の私にはこの経過を追っていくのが精一杯であり、全体を取りまとめることには到底なりませんでした。

保立市長が苦しんだのは、調布、府中、小金井の3市の可燃ごみを処理していた二枚橋焼却場の建替え問題でした。それを検討し、進めてきたのを、昭和60年3月末の市議選の直前の2月13日、市議会定例会で「二枚橋焼却施設近代化計画に関する決議」が全会一致で議決されたのです。その内容は『今日まで二枚橋衛生組合で、現敷地内において焼却場の施設近代化計画が検討されておりますが、小金井市民に二枚橋焼却場から排出される公害等により長い間被害を被ってきたところであります。

したがって、老朽化した二枚橋焼却施設を建替えるについては、小金井市民の現状を十分にしんしゃくし、公害のない、住民に迷惑をかけない施設とし、かつ、他に第2工場を建設することが付帯条件であります。ついては、第2工場の計画検討を近代化計画と同時にすべきであることを小金井市議会として意見、決議します。』というもので、私が市議会議員になる2か月前に市議会で議決されていたのです。

これは、老朽化した二枚橋焼却場の建替えを目的に、昭和58年7月二枚橋衛生組合議会に3市6人の議員による施設近代化特別委員会を発足させ、組合事務局の研究報告を参考に、焼却施設の現状把握と現施設の問題点についての協議や研修視察を実施し、意見の交換を行っていた矢先のことだったのです。

小金井市民は議会が全会一致であることなどから、特段、問題のある決議とは思えず、市議選の争点にもなりませんでした。

しかし、調布、府中の両市にとっては到底受け入れられるものではなく、不信感を募らせることになり、その後の小金井市のごみ行政に大きな影響を及ぼすことになりました。

それは、3市にまたがる現施設の建替え計画の最中に、新たな第2工場の建設計画を同時に進めるべきであるということに両市は到底納得できるものではなかったのです。また、この決議が小金井市議会議員の誰一人反対もなく可決されたことも重大でした。

人口増によるごみ量の増加と、老朽化による焼却量の減少のギャップで、施設を早急に建替えるべき時に大きな難題を小金井市から突き付けられることになったのです。

保立市長が全会一致で議決した小金井市議会の第2工場論を主張すれば、調布、府中両市と対立関係になり、その狭間で苦しい対応が求められました。

(つづく)

走り続けた16年(29)

財政健全化への闘い ⑰

昭和62年9月議会で、①市民の納得を得られる学校施設管理を②施設管理係の事務室を一か所に、という決議が議決されました。

この決議を実現させるため、私は大久保慎七市長を支える与党の立場ではありましたが、このことについては、厳しくその対応を迫りました。

①は、地方自治法に規定する「地方自治体は最小の経費で最大の効果を上げなければならない」の本旨の則った対応をすべきであるということです。

②について、私は、職員組合を結成(再建)し、四半世紀にわたり委員長の職にあり、西の京都、東の小金井と称される無軌道な組合を指導し、影の市長とも天皇とも称された人を、市民からも職員からも目の届かない個室で執務させる等、当局による特別の処遇に問題がありました。良識ある職員の勤労意欲をそぐなど大きな影響を与え、正常な行政執行を阻害するものであり、これを改善させ、組合を良識化させることが私の主眼でした。

この決議を受け、当局は職場と検討委員会を開き協議を開始しました。その進捗状況は各定例会で市長報告に付されるのですが、時間外手当てを支給しての検討委員会にも関わらず、回数は増えるのですが協議の内容は一向に進展しません。

私は、国分寺市が中学校施設を夜間は機械警備による民間委託に切り替え、一校当たり年間60万円の委託料で実施されていることなどを例に、小金井市の直営による1700万円は大きな問題であり、市長に改善の決断を強く求めました。

平成元年、私は2期目の市議会議員選挙に当選しました。その後、平成3年の市長選挙、私は大久保市長の選対事務局長を務め、大久保市長は2期目の当選を果たしました。

平成5年は、3月の市議選の関係から2月2日に第1回定例会が開かれました。

定例会の冒頭の市長報告で、学校施設管理には一定の進展はあったが決着に至っていないというものでした。

私は、「平成5年度の施設管理に要する経費は4億円を超すことになります。そのうちの3億円が学校警備になります。機械警備の導入などによれば15分の1から20分の1の経費で足ります。市議の任期中、3月までの年度内に解決してほしい。組合との協議が整わないのであれば市長の権限で決断してほしい」と発言しました。

そして、定例会最終日、再度の市長報告があり、学校施設警備は非常勤嘱託職員をもって対応する。現在の正規職員は任用換えを行い他の職場に異動する、というものでした。到底満足とはいきませんが牙城の一角を崩した思いでした。

しかし、難題の②に関しては全く手付かずのままでした。

現在の学校施設警備は、私が目標とした非常勤職員で夜間は機械警備になっています。
(つづく)

【今、市政で何が】
賃借している市役所第二庁舎が民間の不動産会社に売却されました。2年前、第二庁舎取得の予算を提案しましたが、議員の多数の反対で実現しませんでした。後日、その時の議会や私の考え方、上原秀則副市長の対応など本欄で報告します。

走り続けた16年(26)

財政健全化への闘い ⑭

学校施設警備の改革の必要性から確信を持っての私の議員活動とはいえ、議会での質疑や職員組合の尖鋭化には少しは心苦しい思いもありました。

組合の脅しに屈することはないのですが、市長や管理職者等を標的とする八つ当たりには困惑しました。

与党議員は、議会の円滑な運営のため組合と私との解決策として、自民党の先輩議員から、私が詫びる、今後の活動は一定の配慮をする。そして、当面、与党会議への出席は自粛する、との和解案が示されましたが、それは、受け入れられないと断りました。

市役所全体が影の市長と恐れ、カリスマ的支配の一職員を、当局が特別に扱うことへの不満から実名を挙げての批判に、共産党を除く野党議員も私の行動は正当な議員活動だとの理解を示し、「我々は野党なので議案に賛成はできないが、円滑な議会運営には協力するから頑張れ」という言質を水面下でもらっていたことが私を強気にしていました。

昭和63年第4回定例会本会議で、共産党を除く全職員の賛成で「職員の議事妨害に対し市長に厳正なる対処を求める」という決議を議決しました。それは、12月22日の本会議「学校施設警備に関する市長報告」に際し、傍聴者である市職員5〜6名が不体裁な態度をとり、またヤジを飛ばして質疑を妨害したのです。

議長はやむをえずその状況を議会事務局の職員に写真撮影させたのですが、傍聴者の1名が無断で議長席の後のドアから本会議中の議場に入り、写真撮影した職員を無理やり議場の外へ引き出そうとしました。その後、議会が休憩に入ると議会事務局で抗議行動に出るなどやりたい放題、社会通念に照らしても尋常とは到底言えるものでなく、市長には傍聴の市職員に対し、市長の裁量において責任ある措置をとることを強く求める、という内容でした。

しかし、残念ながら当局はこの件に関し、何等の手も打てず、また当人たちは全く反省の態度を示すことなく、市議会には不満が募り一層硬化していきました。

続く平成元年第一回定例会に、市職員の給料、諸手当等を合わせて平均2・37%を前年4月1日に遡及して引き上げる条例改正案が市長から提案されました。しかし、前述の問題から与党である自民、公明、民社党の反対によりこれを否決しました。

その時、私の市議会同期で志を同じくし、尊敬する今は亡き公明党の小尾武人議員の反対討論は「議会のみならず市民を冒涜(ぼうとく)するような行為を放置、容認したまま、血税を給与引上げに使うことは断じて賛成できない。ひたすら市民サービスに徹する職員がいることを思い、その家族の一層の生活向上を願う者の一人としてやむにやまれぬ思いの反対である。この一石が、必ずや将来の市政に明るい展望をもたらすものであることを確信する」というものでした。

その後、平成元年3月16日の臨時市議会で、組合委員長の「遺憾の意」の表明を受けて給与条例の一部改正を全会一致で可決しました。

(つづく)

走り続けた16年(17)

財政健全化への闘い⑨

昭和60年4月5日、私の選挙後の市議会議員としての任期がスタートしました。

当選した議員の選挙公約は、職員削減による行政改革で人件費問題を改善し、財政を健全化することが全体の主張であり、それが議会共通の認識でした。

行革には批判的な共産党の候補者ですら、中身は分かりませんが「『行財政改善委員会の設置』で無駄のない市政」等を公約とする程でした。党派を超えて職員削減が最大の課題だったのです。

市議選の約2カ月後の市長選挙では、二期目を目指す保立旻市長の選挙公約も、第一は「行財政改革をさらに推進します」とし、具体的には「民間活力の導入による職員数の削減」を掲げました。

結果、次点の候補にダブルスコアで再選を果たした保立市長の二期目が、5月31日から始まりました。

前任期中に定年制を導入したことから多くの退職者が出たこともあり、職員組合はその欠員補充を激しく求めてきました。交渉は、成立した予算の定数に余裕のある5人の職員を採用するか否かでしたが、保立市政を支持する議員、そして市長本人も直前の選挙公約は職員の削減でした。

連日、長時間の、常軌を逸した激しい交渉は、市長、助役をはじめ担当者にとっては、精神的にも肉体的にも苦痛を伴い、自尊心をも傷つけられるものでした。

その結果、ついに6月12日労使による覚書きが締結され、5人の現業職員の採用が決まりました。

当欄6月1日付の⒀号に記したように、保立市長が職員組合と市議会との軋轢(あつれき)、そして、選挙公約との関係から辞職を考えたのはこのタイミングだったのです。二期目が始まって、まだ2週間の時点にです。

大久保慎七助役がその責任を取る形で10月に辞職し、後任の助役に東京都の職員である市川正氏の選任同意議案が12月議会に提案され議員の質問に保立市長は「大久保助役は6月頃から辞任の意思を示されており慰留は無理だった」と答弁しました。市長選挙に勝利して間もない時点で市長も助役も辞めることを考えていたのです。

革新市政の昭和48年4月、警備職場が1施設3人制となり、その体制は、1日働いたら2日の休みを繰り返すという勤務体系となりました。

昭和52年4月、職員定数の一部改正が議会で可決されてしまいました。それに伴って、その警備員は臨時職員の個人委託等から小金井市の正規職員になったのです。

「月に10日の勤務」とか「775万円(年収)の警備員も」等当時のマスコミで多く報じられるなど、この警備員問題は市政の大きな課題となりました。

昭和62年9月議会で①市民の納得を得られる学校施設管理を②施設管理係の事務室を一カ所に、という決議が議決されましたが、当局の対応が遅々として進まず、賛成の私は独自の行動に出ました。

果たして、虎(?)の尾を踏むことになるのか、です。
(つづく)