走り続けた16年(13)

財政健全化への闘い⑤

地方自治体の職員に定年制度が導入され、小金井市では昭和60年3月31日、職員の定年に伴う退職条例が施行されました。

同日、小金井市議会議員選挙も行われ、4月5日から私も市議会議員としての任期が始まりました。

また、5月26日、保立旻市長の任期満了に伴う小金井市長選挙が行われ、保立市長が再選を果たしました。

再選した保立市長には大きな課題が待っていました。

それは、職員の欠員補充の問題です。小金井市の人件費問題解決のため不補充を貫いてきた保立市長でしたが、定年制の導入もあり、欠員の補充を求める職員組合の要求は非常に激しいものでした。交渉の過程で当局側から「簡単に職員は採用できるものではない、予算の制限もあることだし」との発言がありました。

昭和60年度の職員の予算は1030人で措置されており、職員の実数の1025人とは5人の乖離(かいり)があったのです。この発言に、5名の欠員補充が可能だと職員団体は勢いづきました。

その様な時、保立市長から相談したいこともあるので、団体交渉等の時は、連絡が取れるよう近くにいてほしいと依頼され、私は、団体交渉等の間は市議会自民党の控室で待機し、その交渉の経過を徹夜になっても見守っていました。

小金井市の労働組合は非常に強いとは聞いていたが、社会常識を逸脱する労使交渉の現状を見聞きし、その実態は想像を超える驚きと怒りの連続でした。一部職員が市長を取り囲み、その耳元で、お前呼ばわりの聞くに耐えない言葉で怒鳴ったりするのです。管理職は、口を出せば火に油を注ぐことになるので、遠巻きに時の経つのを待つだけでした。

市長は市長室に缶詰状態になることもあり、打ち合わせを理由に私が連れ出すこともあり、心配する家族が迎えに来ることもありました。また、時には職員が集団で市長の自宅にまで押しかけ抗議することもありました。

団体交渉は怒鳴り声が廊下にも響き渡る程で、会議室から出てくる職員は声をからしていることも多々ありました。徹夜が続く交渉は、精神的にも肉体的にも限界を超え、正常な判断ができないような状況下での妥結もありました。

3月1日号の当欄にその一部を記載しましたが、これが「西の京都、東の小金井」と称された所以なのかと思いました。

欠員補充の激しい交渉が続く中、明け方近くの午前3時過ぎ、自民党の控室に来た保立市長が、私の目の前で選挙管理委員会事務局長に直接電話し「私が辞めたら、後は法的にどうなるのか」と聞いているのです。

私は、あまりの驚きに言葉が出ませんでした。再選されて、まだ1カ月前後なのです。それ程激しく厳しい交渉だったということです。

そして、間もない7月5日号の『市報こがねい』に、現業職員若干名の募集の記事が小さく載り、その後、5人の現業職員が採用されました。団体交渉の経過を知る私は複雑な心境でしたが、与党は硬化しました。

それが10月31日の大久保慎七助役の辞職につながるのです。
(つづく)

走り続けた16年(12)

財政健全化への闘い④

小金井市の財政問題は、昭和50年前後の革新市政に起因します。いわゆる人件費問題です。

昭和46年、小金井市の人口が9万2千人で職員が662人だったのが、8年間続いた革新市政の終えた昭和53年は、人口は9万9千人と7千人、約7%の増加に対し、なんと職員は約1・7倍の1130人まで増えてしまったのです。

当時、東京都は美濃部革新都政であり、JR中央線沿線は革新市政が多いことから、革新ベルトラインといわれた時代でもありました。それにも拘らず、小金井だけが特に深い傷を負い、長い間、その後遺症に悩まされることになったのです。その原因は、三鷹市、国立市と本市の3市で設立した多摩清掃公社に委託していた、ごみ、し尿処理業務を、昭和48年4月の直営化により100名を小金井市の正規職員としたことや、学校警備等の施設管理職員などを正規職員とした直営主義による人員増の問題だったからです。

その結果、昭和52年の総職員1111名中、現業職員は670人となり、前号5月11日号の当欄でお示ししたように、昭和50年代の10年間の人件費比率は、全国ワースト1位が8回、2、3位が各々1回となったのです。

特に、昭和51年度には45.2%と信じられないような数字になってしまったのです。保守市政になった昭和57年6月の市議会では、人件費比率を35%以下に抑える決議を全会一致で議決するに至る程でした。

行政に対しては、市民からの予算要望や人員要望は限りなくあります。議会に請願、陳情も出されます。もちろん議員からの要望もあります。これらは、どれも切実な要望であり、どれも叶えたいと思うのは当然ですし、担当部局もそれを望みます。しかし、限られた財源である予算は、市政全体を見据えて措置していく必要があり、例え、5万、10万の予算であっても、削減したり、また、事業の縮小や延伸しなければならない場面もあります。また、望んだ予算が計上されれば、喜ぶ市民の顔も目に浮かびます。それが、市政の評価になるのかも知れません。

しかしそれは自分の金でなく市民の血税であることの認識で、迎合せず常に厳しい対応をしてまいりました。

政治に対する評価はその時々も必要ですが、20年、30年後の歴史の評価に耐えられなければなりません。私が昭和50年前後の市政を厳しく批判するのは、再びあの様な市政を繰り返してはならないという強い思いがあるからです。

当時の市政執行者である市長の責任は重いものがあります。しかし、それを認めてきた議会も厳しく問われなければなりません。そして、最終的にはその市政を望み、選んだ市民の責任でもあります。それが、後々の大きなツケとなって返ってくるのです。

小金井市は画餅に帰すような政策により、長い間、苦しみ不利益を被ってきた経過があります。市民の皆さんには、それを、忘れず覚えていてほしいのです。
(つづく)

走り続けた16年(11)

財政健全化への闘い③

小金井市政最重要課題は人件費問題でした。

昭和50年代の10年間、一般会計に占める人件費比率は、全国ワースト1位が7年連続を含めて8回、2、3位が各々1回と惨憺(さんたん)たるものでした。

小金井市の人件費等の変化を比較するため、統計として確認できる昭和43年度以降で、最も高かった年度とその数値、私が市政を引き継ぐ直前、大久保慎七市政最終年の平成10年度の決算、そして、私の任期最後の平成27年度予算を比較してみます。

先ず、人件費比率は、革新市政真っ直中の昭和51年度が45・2%、で最大であり、そして、平成10年度は32・3%、私の任期最後の平成27年度予算では16・2%でした。

また、職員数は革新市政最後の昭和54年度1130人。平成10年度は915人、そして、平成27年度は658人まで減員を果たしました。さらに、人件費総額は平成7年度が最大で約104億円、そして、平成10年度は約99億円に。その後、削減をすすめ、平成27年度は60億9千万円までに減ずることができました。

私の在任16年間の経常収支比率、人件費比率の改善率は多摩26市でトップです。人件費比率はあくまで比率ですから分母となる、その年度の予算規模によって変動もあります。平成22年度ようやく10%台に改善し、それ以降は10%台がキープされており、平成27年度の当初予算の16・2%は、やっと他市に追いついたということで、ここまで改善するのに30年以上もかかったことになります。

革新市政の誕生の昭和46年度以降、人件費比率が10%台までに下がった平成22年度までの39年間で、人件費比率40%台が9回、30%台が19回、20%台が11回でした。人件費比率の1%は3〜4億円に相当するものであり、行革のメルクマール(指標)といっても過言ではありません。

地方公務員である市職員は法によって手厚い身分保障があります。民間のように経営状況の悪化を理由に解雇できないのです。一度雇用したら定年まで雇い続けることを想定しなければなりません。それが昭和50年前後の失政の挽回に時間を要した理由です。

人件費問題の失政は、それを改善するには、長い年月とたいへんな労力を費やすことになります。

また、人件費の圧迫による財源不足は、本来、受けるべき都や国の補助対象の事業にも市の原資がないことから着手できず、他の自治体が都市整備を進める中で、結果的に小金井市の街づくりの遅れにもつながりました。市民の皆さんの納めた国税や都税が小金井市に十分に還元されなかったのです。市民にとっては二重三重の不利益となりました。

私は、職員数の削減を基本に、わたりの廃止など給与制度の適正化を図り、30%超の人件費比率を16・2%まで下げることができました。

それは、市民や議会の理解、そして、財政健全化へ我が身を削る職員の協力があって果たせたことでした。
(つづく)

走り続けた16年(10)

財政健全化への闘い②

平成11年4月、私の市長就任時は、特に目的を定めず自由に使える財政調整基金は70万円でした。そして、課題の庁舎建設基金が44万円、職員退職手当基金が36万円であり、人口10万6千人(当時)の自治体が一般家庭の預貯金と比較できるような状況でした。

先の市長選挙の際、「平成4年に購入した土地に庁舎を建てず長期間放置し、目的外に利用してる」との批判がありました。それを信じた人もおられたことでしょう。

しかし、用地取得の借入金の返済は平成23年度にやっと完済したものであり、経営収支比率90%台の財政状況の中で、市民サービスの維持向上と借金の返済に追われており、庁舎建設の基金の積立ができるような状況になかったというのが実態だったのです。

それは、平成4年に市の要請を受けた小金井市土地開発公社が、起債(借金)で蛇の目ミシン工場跡地を庁舎建設予定地として98億6千万円で先行取得をしました。その起債の償還は市が分割で返済していたのですが、取得5年後の平成9年度にはバブル経済の崩壊もあり、毎年の返済額である4億6千万円の返済ができず、元金の残額である50億円は据え置かれたままで、年間約1億円の利息だけを納めるような状況でした。

私は、苦しい財政状況ではあるが、返済期間を平成18年度から平成23年度まで5年間延伸し、毎年、元金3億5千万円と利息を返済することにしたのです。

庁舎問題に関しては、ビジョンが示せず迷走し、その場しのぎだったとの批判もありましたが、市政をよく理解していただければ、その様な批判にはならないと思ってます。

私が市長に就任して最初の議会は平成11年5月11日の臨時会でした。これは、大久保慎七市長が、残り任期わずかとなった平成11年3月末に行った専決処分(本来、議会の議決を経なければならない事案を、地方公共団体の長が法の規定に基づき議会の議決の前に自ら処理すること)の承認を得ることでした。

その内容は、平成10年度の一般会計決算を、都の指導により形式的に赤字にしないようにするため、都からの急遽(きょ)の借入等の支援や公園整備基金からの借入、また、国民健康保険特別会計や下水道特別会計への繰出しを行わないことなどの予算措置を講じて、赤字を回避したのです。しかし、繰入のなくなった国保等特別会計は赤字となるため翌年度に予定される歳入を繰上げて充用するという措置を講じることになりました。

これらはすべて後年度負担となり議会からは厳しい指摘を受けましたが、私は、大久保市長のとった手法は財政状況を踏まえると止むを得ない判断だと答弁しました。本会議の採決の結果、議会の承認は得られました。

昨今、一部市民や議員から「崖っぷちの財政」と揶揄(やゆ)されることもありましたが、私は、昭和50年前後に崖下に転落し、その後、長い間暗い谷底をさ迷っていた小金井市の財政が、谷底からやっと陽の当たる崖っぷちまで這(は)い上がってきたのだと思っています。

財政の健全化などを見るときは、その時々の判断も必要ですが、継続的な視点で5年、10年、そして、20年前からの動向を見ながら判断する必要があると思います。

(つづく)

走り続けた16年(8)

財政健全化への闘い①

平成11年4月26日市長としてスタートして間もない5月中旬、東京都総務局行政部の幹部職員5〜6人が来庁されました。

その際、言いにくそうに出た言葉は、「当選して間もないところで申し上げるのは心苦しいが」と前置きし、「小金井市の財政は極めて厳しい、このままでは自治体としての存続すら危ぶまれる」との言葉でした。財政の厳しさは議員として十分理解していたことなので特に驚くことではありませんでした。私は「行政改革を進めるなど財政健全化に向け全力で取り組みますので、東京都においても特段のご指導ご支援をお願いしたい」と申し上げ、都の協力を取り付けました。今でもその光景は忘れられません。

市長としての任期が続くことにより、その間、都の職員も部長、局長、副知事と昇進し、小金井市の要望を叶えられる役職となったとき、その人脈を十分に活用させていただきました。

私が市長に就く以前、平成6、7年度の決算では、財政の弾力性を示す経常収支比率は全国660数市の中でワースト1位。その後、財政再建団体に陥ったあの北海道夕張市をも下回る比率でした。

その平成7年度決算では、経常収支比率107%、人件費は約104億円で一般会計に占める割合は33・8%であり、多摩27市の平均は21・4%でしたので、単純にこの率を小金井市の予算に当てはめれば38億円が過剰であるということです。これは、この年度だけではなく過去から長く続いてきたことでした。

平成8年度も状況は変わらず、翌9年度はついに定年退職者の退職金が払えず、全国で初めて退職手当債(借金)6億5千万円を発行して退職金を支払うという状況に陥りました。また、普通退職者も予算不足により退職金が払えないため、年度を跨いで新年度4月の退職をお願いすることもありました。

また、バブル経済の崩壊による税収減の中で、社会保障費の歳出は増え続け極めて厳しい財政状況が続いていました。

冒頭に申し上げた、都職員の来庁はこの様な財政状況からであり、これを改善するには職員数の削減や給与の適正化等人件費をはじめ行財政改革を強力に進めることでした。
(つづく)

「今、市政で何が」

小金井市議会は、3月28日深夜の本会議で総額402億円の平成28年度一般会計予算案を採決し、民主党会派2人の賛成、その他8会派21人全員の反対により否決となりました。西岡真一郎市長は、4、5月の2カ月の暫定予算を提案し議会は可決しました。

予算否決の背景は、西岡市長の選挙公約の核となった庁舎、新福祉会館等6施設を蛇の目ミシン跡地に集約することについて、全体計画、完成までのスケジュール、そして、財源計画等の目途が示されないことに起因するものと思われます。今後、市長自身による具体的な計画を早急に市民や議会に示す必要があると思います。