さくら通信

趣味は献血

献血は学生時代からクラブ活動の一環として参加してきました。

平成11年4月市長に就任して約1か月後の5月、小金井市献血推進協議会の総会に来賓として出席しました。型どおり平成10年度の事業報告があり、市内で年間30回位の献血活動を事業所や大学、イベント会場等で行われ、その人数が棒グラフで示されました。各会場ともに50人前後の協力でしたが、1月に行われた市内で最大の事業所である市役所が10数人と最低の報告でした。「趣味は献血」と言ってきた私にはいたたまれない針のむしろに座っているような総会でした。

その後の市役所での献血には事前に文書等で周知し、当日は庁内放送で、業務に支障がないように遣り繰っての協力を職員にお願いしました。

本年度の第45回総会が昨日5月26日開かれ、会員39人の内27人の出席で開催されました。

顧問を仰せつかる私も出席しましたが、肩身の狭い思いはありませんでした。

100回の献血を目指していた私でしたが70歳の年齢制限が先に来てしまいました。

市役所では条例で休暇が決められており、結婚、出産、育児、介護、忌引、ボランティア等とともに、骨髄液提供等の休暇もあります。

所謂ドナー休暇です。

しかし、活用した職員がいないことから、市長就任早々の私が、と申請しましたが、ドナーには54歳は年齢オーバーでした。

さくら通信

ピアノはスタインウェイ

毎週土曜日の朝は「題名のない音楽会」です。

昨日も同様でした。ピアニストは藤田真央さんでゲストは宇宙飛行士の野口聡一さんで先週の続きでした。

ピアノ演奏もお二人のトークも素晴らしのですが、私がいつも気になるのはピアノの側面に書かれたSTINWAY&SONの文字です。

市民交流センターの建設には内装や備品、緞帳や客席の椅子なども決めることは山程あります。

落語家の座布団も市議会の議論の対象になりる程でした。

その中にはピアノもありました。専門家は当然のように一階のホールは国産で大ホールはスタインウェイとのことでした。

全く知識のない私は方々に問い合わせスタインウェイに決めました。予算は2千万円です。

諸般の事情で建設が遅れていたことから2千万円を超えることが危惧されました。

2千万円を超えれば議会の議決が必要です。

座布団まで議論の対象になる市議会です。報告された金額は確か1,950万円でした。

次は横浜の倉庫に沢山あるスタインウェイの中から1台を選ぶのです。素人では到底無理です。

そこで、プロ中のプロであるピアニストの小山実稚恵 さんにお願いしました。

市民交流センターがオープンした後、小山実稚恵さんのコンサートの前日、大ホールでのリハーサルに市の担当だった川井修部長と数人が招かれてお聴きしたのは最高の贅沢でした。

スタインウェイのピアノを見るたびこれらのことを思い出します。

走り続けた16年(276)

給与制度の革命

平成10年3月に定年退職する33人の職員の退職金が財源不足により支払えない状況に陥り、全国的にも異例な退職手当債(借金)9億5千万円の発行を平成9年2月市議会の一般会計予算に計上し議論の末に議決した。

しかし、起債(借金)するには国と都の許可が必要であり、総務省は小金井市に起債の条件として多すぎる職員の削減、公共料金の市民負担の適正化、そして、年齢により給与が決まる年齢給から職務・職階による職務給への変更を許可条件とした。課題は昭和37年の「幻の37協定」に基づいて制定され35年間も続いている「年齢給」を「職務給」に変えることであり、部長も一般職も、現業も事務職も、職務・職階、職歴、学歴も関係なく年齢が同じなら同じ給与の悪弊を改善することで数年前から職員組合に提案していたが、既得権を頑強に守ろうとすることから交渉に入ることすらなかった。

しかし、仲間であり組合員である職員の退職金に直接係わる問題であることから平成8年度の団体交渉からは無視することにはならず、12月27日当局は改善策を提案。翌9年5月21日に具体的に給与表を提示し交渉が続いた。同一年齢であっても職務・職責により賃金格差が生じることになり、現業と非現業間でも格差が生ずる当然の職務給への移行です。給与制度改正の絶好のチャンスが到来したのです。

また、9年3月に行われた市議会議員選挙では給与制度の改革を主張した候補者が多く当選を果していた。

労使交渉は膠着状況になりなかなか進展しません。私は、労使合意ができないことを理由に市長が給与条例の改正案を議会に提案しないのであれば、議員提案で条例の改正をする準備を進めた。私の作成した給与条例の改正案は市長案より厳しいもので、その条例案に不備がないか担当部課にチェックをお願いした。これにより、私が条例案を準備していることが組合側にも当局にも広がった。

大久保市長の答弁から「国は給与制度の改正ができなければ赤字再建団体(倒産)になるのも止むを得ない、再建団体にした方が再建が早い」との見解を持っていることを知った。国の厳しい対応は望むところであった。

組合は当局の提案を拒否すれば、市議会の構成から議員提案の職務給導入の条例改正が可決される見通しから決裂を避け労使協議は継続された。

労使は12月中旬からは連日のように公式・非公式の折衝を行っていた。起債申請のタイムリミットである10年2月16日共産系の小金井市職員労働組合との交渉は決裂した。しかし、主となる自治労小金井市職員組合の執行部は「妥結せざるを得ない」との雰囲気に傾いた。そして、組合の緊急拡大職場委員会で妥結案が説明された。もし、起債ができなければ組合員の定期昇給やボーナスのカットも想定され、妥結しなければより厳しい議員提案の賃金体系になることなどが説明され、時間をかけて同意を求めた。執行部は採決に当たって挙手ではなく拍手での同意を確認し組合員に承認された。

それを受けて待機していた当局と17日未明から開かれた団体交渉で職務給の導入が合意され歴史的な節目を迎えた。より職責と能力、意欲のある職員が給与の面でも恵まれなければならないのです。

労使交渉を常にチェックしてきた私は労使合意ができなければ議員提案での条例改正の準備が出来ていたので不安は無かったが、組合が同意したことで混乱することもなく議会への「職員の給与の一部を改正する条例」の提案となり、本会議に上程後、私が委員長を務める総務委員会に付託された。3月16日の委員会で質疑となりました。主たる質問は二つある職員組合の片方でなく両方の了解を得るべきだとの質問でした。他にも案件が多く採決は日付を越えた1時過ぎとなり、共産党が退席し残りの全委員の賛成で可決された。

30日の本会議も退席の共産党を除く全議員の賛成を得て、35年の長い間市民を苦しめ続け、混乱させてきた年齢給、最悪の制度に終止符が打たれた。

(つづく)

走り続けた16年(275)

職務給導入で組合と合意

昭和33年10月1日の市制施行を記念し、それまで職員は地元から選考で採用していたが、翌年から地元に限定せず大学卒も公募で採用することにした。採用された職員の中には学生運動で活動した者もおり、次年度以降はその活動仲間を誘って受験させ入所するようになった。

36年1月、それまで職員組合の執行部は役所の管理職が交代で務めていたが、引き受け手がなく入所数年の若手の平職員が過去の推薦の慣例を破って立候補し就任した。戦い慣れた怖いもの知らずの新執行部に対し、これまで仲間内の御用組合を相手にしてきた管理職では到底太刀打ちできなかった。

発足早々の若い組合は目の前の賃金闘争に勝利し、意気上がり組合員の期待も膨んだ。

2月の団体交渉で「年齢給」を意味する年齢別最低保障に当局から前向きな発言が出たことで組合は勢い付き、違法なストを構えての交渉となった。

当時の会議録等によれば、団体交渉が続く3月4日は日付を跨いだことから鈴木誠一市長は団交を関綾二郎助役(2代目市長)や労務担当者に任せて帰宅した。後を任せられた助役以下は何とか妥結に持ち込みたいと組合側と交渉を重ねた。5割や3割休暇、超過勤務の拒否などの違法な実力行使で行政執行に支障を来していたこともあり、当局は朝8時30分にこの内容なら市長も納得するだろうとの思いから組合と妥結した。しかし、登庁した市長はその内容に不満を示し激怒したとのこと。そのため、この覚え書きに市長は署名・押印しなかったのである。それが「幻の37協定」と言われる所以である。

この「37協定」による年齢別最低保証制度は学歴や職歴、職務・職階に関係なく年齢により給与が決まるもので、組合は大根一本、サンマ一匹、部長が買っても平職員が買っても値段は同じ、との屁理屈が原点であり、勤労意欲に欠ける職員には歓迎の制度だった。

「協定」は市長の署名がなく幻に終わったが助役をはじめ労務担当職員が一旦合意していたことからか3月定例会に「協定」に倣った「職員の給与に関する条例の一部改正」の議案が提案され議決されたのです。これがその後、長い間小金井市財政を苦しめる根源となる「年齢給」の導入だったのです。しかし、総務委員会や予算特別委員会でも特段の議論にはならず、本会議で与党の保立旻議員(5代目市長)が追求したが及ばなかった。

これは、職員の勤務意欲を失わせ職場の活性化を阻むものであり、この改正された条例は、地方公務員法第24条第1項の「職員の給与は、その職務と責任に応ずるものでなければならない」との法に反するものでもあった。「37協定」には10項目であり、その中身は②年齢別最低保障。③在職調整を行う。それは⑤昭和39年度までに完了する。⑧外部への公表については甲乙協議の上決定。さらに、⑩本覚え書きの交渉過程において発生した(法律違反など)諸問題についての責任は追及しない。というものでした。

問題は「37協定」が幻にも係わらず鈴木市長の後の、関、永利、星野、保立、大久保と歴代の市長も給与改定等において「所謂『37協定』による給与の調整」という1項目がついて回っていたのが解せないのである。

この年齢給とともにその後50年前後の革新市政による大量職員の採用が小金井市民を長い間苦しめ続けた。

(つづく)