さくら通信

市長の任期は48ヶ月

市長の任期は4年ですが、緊張感を持つため 4年ではなく48ヶ月と 考えていました。

1ヶ月が経てば残り47ヶ月。 2ヶ月経てば 24分の1が過ぎてしまったと考えるのでした。

これは、議員の時の経験からでした。

4年は長いが過ぎてしまえば短いものです。常に残りの任期を考えて仕事をしていました。

そして、 A 4に拡大した選挙公約と当面する課題を目につきやすい事務所の壁に貼って、その課題と任期をいつも考えていました。

当面する課題は、長年続く危機的な財政の健全化と開かずの踏切で南北に街を分断する中央線の高架化、そして中央線で最も整備の遅れている駅周辺、武蔵小金井駅南口の再開発と東小金井駅北口の区画整理等の街づくりでした。

それを1期48ヶ月でどこまで進められるかです。

さくら通信

市長の任期は48ヶ月

市長の任期は4年ですが漫然としないため48ヶ月と考え、1ヶ月経てば 残りは47ヶ月、 2ヶ月経てば 24分の1が終えたと常に緊張感を持ち、1日も無駄にしない行動をしました。

そして、事務所の壁にA 3に拡大した選挙公報と当面する課題を貼って常に目にしていました。

課題は倒産寸前の危機的財政の健全化 。

開かずの踏切で街を南北に分断する中央線の高架化、そして八王子駅までの中央線で最も 整備が遅れていると言われる武蔵小金井駅の再開発と東小金井駅の区画整理の街づくりでした。

それを48ヶ月でどこまで進められるかでした。

走り続けた16年(215)

街づくりへの挑戦㈺ 高架工事着工

大久保慎七市長3期12年、最後の議会となった平成11年3月の定例会、残り任期が1か月となったことから、平穏な定例会となり、平成11年度一般会計予算をはじめ提案された議案27件のすべてを可決し、終了しました。

私は、市民の永年の悲願である中央線高架化の条件である東小金井駅北口の区画整理事業の進捗に必要な「施行規程を定める条例」の議決に努めましたが、再度継続審査となってしまったことが悔やまれました。

国鉄の輸送力増強の方針であった「5方面作戦」で、唯一遅れていたのが中央線の高架複々線で、昭和44年に三鷹まで延伸され、これを契機に多摩地域20市3町村により、三鷹から立川までの立体・複々線化を実現させるため「三鷹・立川間立体化複々線促進協議会(複促協)」が発足しました。しかし、三鷹〜立川間で最も重要な位置にある小金井市が国鉄のペースで進むことに対する不信感から加盟しないのです。そのため「複促協」は「停滞協」と揶揄される始末でした。

停滞の大きな要因は小金井市にあり、それは、市の財政事情から事業費の「地元負担ゼロ」の主張と、東小金井駅の街づくりの遅れが原因でした。都や沿線市の関係者からは「しょうがねい市」との陰口も聞かれました。しかし、小金井市の負担金は80数億円であり、それは、大きな負担ではありました。

昭和55年4月、発足から12年を経て小金井市も「複促協」に加入し、活動するようになりました。しかし、昭和56年12月の市議会で再度「本市の財政事情からも地元負担は絶対不可能」との意見書を国鉄総裁や都知事宛てに送付しました。

昭和58年の統一地方選挙で武蔵野市長に就任した土屋正忠氏は、武蔵野市にとっても高架は重要であり、積極的に取組み、保立旻、大久保慎七市長にも説得を試みていました。

昭和60年4月に市議会議員になった私にも土屋氏をはじめ、多方面から中央線の高架事業は都市計画事業であり、都市計画税の課税主体が市にある以上、地元負担ゼロではいつまでも高架は進まないと説明されました。都も関係市も事業の遅れの原因は小金井市の責任だとの主張もあり、次第に議会にも、地元負担やむなしの雰囲気が広がりました。

昭和62年4月の国鉄の分割・民営化により、これまでの都との合意は白紙に戻され、発足したJR東日本は約420億円を負担する高架事業には消極的になっていました。

平成2年3月の市議会で、高架化に必要な資金を積立てる「小金井市鉄道線増立体化整備基金条例」を議決、それに1億円を積立てるなど大きな前進を果たしました。これにより、小金井市も地元負担を認める大きな進展になりました。

次は街づくりです。平成6年に入り東小金井駅北口の区画整理事業の各種手続きも進み前進しましたが、平成10年9月、本欄冒頭に記した「施行規程を定める条例」が地元地権者の過半数が反対である、という理由から議会の理解が得られず継続審議の繰り返しになってしまいました。

しかし、都は平成11年3月18日、「中央線三鷹〜立川間連続立体交差事業着工記念式」を武蔵境スイングホールで関係者約500人の参加で挙行。ついに工事に着手しました。

(つづく)

走り続けた16年(206)

街づくりへの挑戦⑩ 区画整理

国家的事業ともいわれる三鷹~立川間13・1㎞の連続立体交差事業は、昭和41年に中野~荻窪間、44年に荻窪~三鷹間の高架・複々線の共用が開始され、次は立川までの高架化と具体的に動き出しました。鉄道の高架事業と沿線の街づくりは「不即不離」の関係とされており、小金井市においては東小金井駅北口の区画整理事業の推進が、そのまま中央線高架化の進捗に連動するものでした。

東小金井駅北口の区画整理の停滞から高架事業も滞っていましたが、平成6年に入り区画整理事業が動き出したことから高架化も一挙に進み出しました。

区画整理が順調に進み始めたことから、平成10年9月定例会に区画整理事業に必須とされる「施行規定を定める条例」が市議会に提案されました。しかし、入り口論の質疑に終始し条例の中身に入れず、課題は先送りの繰り返しになりました。これにより、内示された国庫補助金は断念せざるを得ません。そのため、国鉄清算事業団が所有する貨物駅跡地を仮線路用地としての取得に補助金を財源とすることができず、私たち区画整理推進の与党系11議員で、補助金なしで小金井市土地開発公社による用地の先行取得を大久保慎七市長に申し入れました。

特別委員会で当局は地権者の71%が賛成としていたが、市の情報公開条例に則っての調査で、賛成者の中に反対の地権者が5名入っていたことが判明、市に訂正要求がされました。また、賛成の中には市や市の土地開発公社、都や区画整理関連の6団体、29人の区分所有者の集合住宅は、管理組合の代表の意向だけで全員を賛成にカウントする等から、ずさんな調査だとの指摘に対し、反論の言葉がありませんでした。また、当局の強気の発言が野党の一層の反発を招いていたのです。

条例が可決されないことなどから平成9年・10年と2年連続して内示のあった国庫補助金は取下げの手続きとなり、今後、補助金が得られない可能性がある、との指摘もあり、その様な事態になれば、中央線高架化の遅れとなり、国や都、近隣市との信頼関係が損なわれることが懸念されました。

私は、仲間の都議の紹介で、同僚の小金井市議会の佐藤義明議員と都庁の区画整理課を訪ねました。統括課長の宮澤正氏と担当職員との面談予定でしたがそこには、高木正彦部長も入り、さらに、石河信一道路監の同席には驚きました。小金井市議会に対する期待と中央線の高架化は都政の最重要課題とする鈴木俊一知事の思いが伝わりました。区画整理部との話し合いで、都は今後も全面的に協力していくとし、補助金の2年連続の返上を今後に影響させないというものでした。2人の議員の勝手な行動が役に立ったとの思いでした。石河道路監等にはその後も小金井市の街づくりに協力をいただきました。

区画整理の反対運動は盛り上がり、少数与党でもあり施行規定を定める条例が遅々として進まないことから、高架化のための仮線路用地の確保は、小金井区域は遅れていましたが、他市では着々と進み、事業主体である東京都は平成11年3月18日に中央線高架化工事の起工式を行うことを決定しました。

(つづく)

走り続けた16年(199)

街づくりへの挑戦 中央線高架⑤

「開かずの踏切り」解消のための中央線高架化は常に市政に対する市民要望の最上位でした。それが、平成2年3月、小金井市が事業費の一部を負担することに同意したことにより大きく前進することになりました。

国の平成5年度予算編成で鉄道立体化の予算要望は福岡、広島、岡山など有力な国会議員が選挙区とする6か所が手を挙げ、都も最重点施策として三鷹〜立川間の連続立体交差を要望しましたが、大蔵原案では見送られました。中央線は事業費も莫大になることから慎重な対応でした。

国は、事業採択し都市計画決定へと進めれば、沿線の街づくりとは関係なく高架化は進むとの誤った判断となり、遅れている沿線の街づくりがさらに遅れるとの危惧があり、それが、大蔵原案のカットの原因でした。

そこで、鈴木俊一都知事の直々の予算復活の陳情となりました。その結果、平成4年12月23日の局長級復活折衝で立川〜国分寺間の西区間に限って新規事業として採択されたのです。これは、国と都の間に生じた軋轢を苦肉の策で急場をしのいだといえそうです。ここで国がこだわった街づくりの遅れとは小金井市のことでした。

事業採択は立川〜国分寺間と全線の一部でしたが、調査設計費4千万円が認められたのです。2千億円といわれる総事業費の極く一部ではありますが、多摩地域の長年の悲願である中央線の高架化実現への突破口が開かれたのです。

さらに、平成6年5月、都市計画が決定されました。それは、在来線は高架、新線は地下化にするというもので、この計画は現在でも生きています。

市は昭和61年「東小金井駅周辺整備基本構想調査」を実施し、さらに、それをより具体化するため「北口」に絞っての調査を実施しました。その調査の結果、土地区画整理事業と市街地再開発事業の2案が提示され、東小金井北口の街づくりは再開発で進める方針が示されました。

中央線高架事業を進めるには東小金井駅周辺の街づくりがどうしても必要でした。

平成4年、中央線高架計画が具体的になると、高架工事には在来線を一旦北側の仮線路を走らせる必要があります。その仮線路が東小金井駅北口の再開発予定区域に想定外に食い込むことが分かりました。また、バブル経済の崩壊による経済の低迷で床需要が減少したことなどにより再開発事業は困難との判断になりました。

そこで市は、かつて再開発とともに調査していた総合的面的整備の土地区画整理による街づくりに変更することを表明しました。

武蔵境駅と武蔵小金井駅の中間に新駅が望まれ、地元市民の土地や事業費の提供により昭和39年に誕生したのが東小金井駅でした。

新たに駅ができることから周辺の街づくりが望まれ、それが区画整理事業でした。

昭和36年、新駅開設を前に、初代市長の鈴木誠一氏による東小金井駅を中心に142ヘクタールの広大な区画整理計画や、昭和43年3月二代目の関綾二郎市長の区画整理予算の提案に、市議会で事業費のほとんどが全会一致で減額修正された過去の経過がありました。地域住民の理解が得られず頓挫したのです。

この様な過去の厳しい経過が、私の脳裏をよぎりました。

(つづく)