さくら通信

訃報が続いた 6月

元・早稲田大学総長の奥島孝康 氏が1日、逝去されました。

享年85歳でした。

奥島氏は早稲田大学の14代総長で、その後高野連の会長など多くの役職を務められました。

私が最初にお会いした時の記憶はないのですが、平成11年12月4日に行われた早稲田実業高校のキャンバス内のグランド開きで久しぶりにお会いしました。

グランド開きには地元国分寺の山崎眞秀市長が欠席とのことから、私も一旦はお断りしましたが、小金井も地元だと言われ出席させていただきました。

テーブルは王貞治氏や奥島総長と同席でした。

その数日後、奥島総長と小金井市内の割烹真澄で食事となりました。その席でグランド開きで早実の広報が撮った王さんとのツーショットの写真が欲しいと言うと、探して届けるとのことでした。しばらく経ってから、割烹真澄で総長から貴重な1枚の写真を受け取りました。

また、小室哲哉さんのコンサートなどにも呼んでいただくなど個人的にもお付き合いをさせていただきました 。

ご冥福をお祈り申し上げます。

さくら通信

思い出の7月2日

60年前の昭和40年7月2日午後4時、横浜港大桟橋から大阪商船の移民船「さんとす丸」(8500t)がアメリカに向けて出航した。

私は子どもの頃からの夢だった世界一周無銭旅行に、大学2年が終えた時点で1年間学校を休むと決めてこの船に乗りました。

3月頃から船内で働くことを条件に、ただでアメリカまで乗せてくれる船を探すため連日海運会社めぐりです。

根負けした大阪商船が話を聞いてくれて無料にはならなかったが、船内で仕事をすることなく乗せてくれました。

海外旅行の自由化前で1ドルは360円で、旅行者が海外に持ち出せる金額は500ドルまでで、パスポートやビザの取得も自分でする時代でした。

さんとす丸は貨客船だが貨物船に毛の生えた程度で、私の区画は船底の小体育館のような船倉の真ん中に工事用のパイプを組み合わせ、その間に幅1m×縦2mのベニヤを渡し、マットレスを敷き毛布を掛けただけの簡素でした。しかし、私には最高の居場所でした。

出航して数日後、1人の中年女性がかいこ棚の船底に来て、「皆さん ポルトガル語の勉強をしませんか」と呼びかけた。私は一目見て、この人は澤田美喜さんだと気づいた。

船にはブラジルやアルゼンチンに移住する人たちや、進駐軍の米兵を父に日本人を母にする 混血児 7人が、人種差別のないブラジルへ移住することで乗っていました。

出港時にマスコミがいたことや、澤田美喜さんが乗っている理由がこれで分かりました。

澤田さんは、三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎の孫であり父は久弥です。

16日後、船はロサンゼルス南のサンペドロ貨物港に着き、澤田さんや7人の侍、南米に移住する人たちとの別れでした。

憧れの米国です。

ロスから西海岸を北上しカナダのバンクーバーへ。そして南下し再び ロスへ。ここでアルバイトを、その後、 南部を経て東部フロリダから北上 9ヶ月後の3月、ニューヨークでイギリスに向かって世界を一周するか日本に帰るか悩みました。

米国でのアルバイトでその後の旅費はある程度確保していたが、学校は新学期が近い頃で悩みました。

結局、米国中央部を横断しロスに戻り飛行機でハワイへ、そこで目いっぱい泳いで、 そして、 5月のゴールデンウイークに羽田へ帰ってきました。

世界一周の1人旅の夢を果たすことはできませんでしたが、満足の旅でした。

さくら通信

市長の任期は48ヶ月

市長の任期は4年ですが、緊張感を持つため 4年ではなく48ヶ月と 考えていました。

1ヶ月が経てば残り47ヶ月。 2ヶ月経てば 24分の1が過ぎてしまったと考えるのでした。

これは、議員の時の経験からでした。

4年は長いが過ぎてしまえば短いものです。常に残りの任期を考えて仕事をしていました。

そして、 A 4に拡大した選挙公約と当面する課題を目につきやすい事務所の壁に貼って、その課題と任期をいつも考えていました。

当面する課題は、長年続く危機的な財政の健全化と開かずの踏切で南北に街を分断する中央線の高架化、そして中央線で最も整備の遅れている駅周辺、武蔵小金井駅南口の再開発と東小金井駅北口の区画整理等の街づくりでした。

それを1期48ヶ月でどこまで進められるかです。

さくら通信

市長の任期は48ヶ月

市長の任期は4年ですが漫然としないため48ヶ月と考え、1ヶ月経てば 残りは47ヶ月、 2ヶ月経てば 24分の1が終えたと常に緊張感を持ち、1日も無駄にしない行動をしました。

そして、事務所の壁にA 3に拡大した選挙公報と当面する課題を貼って常に目にしていました。

課題は倒産寸前の危機的財政の健全化 。

開かずの踏切で街を南北に分断する中央線の高架化、そして八王子駅までの中央線で最も 整備が遅れていると言われる武蔵小金井駅の再開発と東小金井駅の区画整理の街づくりでした。

それを48ヶ月でどこまで進められるかでした。

さくら通信

日本の標準時は小金井市から

大正9年に6月10日を「時の記念日」とすることが決められました。

また、日本の標準時は東経135度を太陽が通過する時刻を12時と定めました。

その135度が明石市等12市を通っていることから、私たちは明石市が標準時と教えられてきました。

しかし、明石市等は位置してるだけであり、実際に発信しているのは小金井市からなのです 。数年に1回行われたうるう秒の調整も、小金井市貫井北町4丁目の情報通信研究機構で行われたのです。

私たちが使っている電波時計が受信する標準時も、元はここから発信されています。日本の標準時は明石市ではなく小金井市から発信されているのです。

これを全国民に知っていただく必要があります。そのためには 時の記念日を活用しイベントを行うことです。

武蔵小金井駅の自由通路に、小金井ロータリークラブと小金井さくらロータリークラブが共同で設置した、1秒の狂いもない電波時計も老朽化で撤去されてしまいました。

時を発信する小金井市として、何とかならなかったのか悔やまれます。

かつて、新庁舎建設予定地の西側に蛇の目ミシン工業の本社があり、その屋上の塔屋には大時計が設置され、電車の上り下りの乗客が昼夜を問わず目にしていました。

建設予定の新庁舎もJR中央線に面し、適度な距離があることから大時計の設置が望まれます。

これにより日本の標準時が小金井市から発信されていることなど、小金井市の広告塔としての役割の十分に果たすものと思います。